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白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

イーヴォ・ポゴレリッチ サントリーホール20161210公演感想

サントリーホールでイーヴォ・ポゴレリッチのピアノコンサートを聴いてきた。
お友達が取っていたチケットなのだけど急遽出張が入ってしまい譲っていただいたチケット。
ポゴレリッチでしかもS席という贅沢なのでそのお友達には年明けにでもちょっとお高いデザートとドリンクを奢らせていただく予定だ。

演目は
ショパン バラード2番
シューマン ウィーンの謝肉祭の道化
アンコール シベリウス 悲しきワルツ

という構成。
ポゴレリッチの音源は3枚持っているがコンサートは初だ。
とにかく「おもしろい」演奏だった。
ショパンは曲自体がロマンチックというか狙いが個人的にはすまされてる感があってあまり好きではないのだが彼の演奏はちょっとびっくりするような間の取り方だった。
それが良い意味でショパンの上品さを減じていてそれが最初戸惑った間により彼独特のグルーヴ感を生み出していったので、みんな聴きなれすぎた有名曲にも関わらず「どんな風になるんだろう」と聴き入ってしまった。
クラシックに「グルーヴ感」というと少し違和感のある人もいるかもしれないが私はこの「グルーヴ感」を重要視している。
溜めも計算されて、勿論、休符も計算されると曲全体の流れにただ感情的なだけじゃ出せないうねりが出てくる。
これはクラシックの人には比較的苦手なリズム感なのだが複雑なリズムパターンを繰り返し聴いていくとこのグルーヴが身につく。
ポゴレリッチはフォルテが得意だが生で聴くとフォルテの在り方の多様性がよく分かった。
彼のフォルテは叩きつけるところがまるでない。
大合唱のような底辺の柔らかさを持ちながらダイナミックなフォルテだ。
あれだけ広い会場の(多分)隅まで行き渡らせる音量でありながら叩きつけないのはとても難しいと思う。
シューマンはひたすら楽しかったし、このフォルテが活かされたのが最後のラフマニノフだと思う。
ラフマニノフは曲自体が音数が多いのでどうしても音色を10本の指それぞれに弾き分けることの出来るピアニストは稀有な存在となる。
聴いてて音色の分離の良さと想像力と豊かさにはため息がもれた。
勿論弱音(ピアノ)のラフマニノフの危うさ、怪しさも醸し出されていた。
技術的にも難しいラフマニノフをこう、悠然と弾き、出す音階と引っ込める音階を分け、聴き手に「聴かせる」のはさすがだなと思った。

アンコールはシベリウスの悲しきワルツ。
知らなかった曲なのだがその静けさと和音の不思議さにとても気に入ってしまった。
こういう曲をアンコールで選ぶの、楽しいなー。

ちなみにポゴレリッチは全部譜面持ち。
どうやらポゴレリッチは譜面の書き込み度が他のプロからみても尋常じゃないらしいので、暗譜(手元をみて弾ける)より書き込んだものを完全な形で再現させたいのかなと。
その譜面みてみたい。

色彩溢れた演奏に、チケットを譲ってくれた友達に感謝するしかありません。
ありがとう!f:id:nyao1214:20161210223804j:plain

ダニエル・ハーディング指揮マーラー「千人の交響曲」

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すみだトリフォニーホールダニエル・ハーディング指揮マーラー「千人の交響曲」を聴いてきた。

マーラーの中でも私はこの曲を偏愛している。

ただこの曲自体アッパー系であり演奏者が合唱隊と共に多いので破綻しやすい。

それをハーディングは情緒を出しつつまとめ上げたことに鳥肌がたつほどの(鳥さんになってしまうほどの)体感をしてしまった!

第2部の歌詞はゲーテファウスト」最終場面より。

歌詞を見ながら聴くことがなかったのでこの歌詞にも心と身体が根底から揺さぶられた。

そしてやっぱりコンサート、生。

マーラー特有の進化した対位法的なものが魅力なのだが、生で聴くと楽器の分離がしっかりしていてその魅力が存分味わうことができた。

そして合唱隊主はやはり体感的にビリビリくる。

私は不勉強ながらゲーテファウスト」は第1部しか読んでいないのだがこれを機会に続きの2部も積ん読から取り出すことにした。

マーラー「私の作品の中で最大のもの。内容も形式も独特で、手紙には書けません。想像してください。宇宙が鳴り響き出すのを。もはや人間の声ではない、公転する惑星と太陽です。」

ちなみに帰宅してCDのサイモン・ラトル指揮「千人の交響曲」を聴き直してみたのだが最初「ちょっと攻撃的すぎて」と今まで感じていたのだが個性はあるので全集が欲しくなりAmazonでポチっとしました。

マーラーは全集ともどれもそれぞれの魅力があるので一気に聴くのが楽しみ。

アウシュヴィッツの囚人写真家

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ルーカ・クリッパ/マウリツィオ・オンニス著「アウシュヴィッツの囚人写真家」がとても良かったのでブログに書き留めておきたい。

本書は囚人写真家ヴィルヘルム・ブラッセのロングインタビューを元にディティールを加え物語を書き起こしたものである。

しかしながらブラッセの心情はとても正直なもので書き起こしされたことによってブラッセに読者がよりのめり込めるものとなっていた。

写真家であったためにアウシュヴィッツで特別な仕事を割り当てられ始終身に迫る死を感じながら、恐れながら、奮起しながら記録としてのこれから死に向かう者の証明記録写真を撮る。

私は写真は好きだが詳しくはないので細かい技術面での記述はわからないこともあったのだが、少しでも良い写真を撮りたい、彼ら、彼女らが生きた証しを残したいというブラッセの写真に対する情熱は、このアウシュヴィッツという過酷な限られた、それと上との駆け引きには胸を打つものがあった。

ライティングを出来る限り工夫し、写真を撮る間は誰にも邪魔されずに(被写体に危害を加えさせずに)傷は目立たなく撮りたいというブラッセ。

ブラッセは決して聖人君子ではない。

数々のアウシュヴィッツものを読んできたがここでは聖人君子の物語はたぶん嘘なのだ。

ブラッセも自身の後ろめたさに苦悩する。

自分だけが他よりは優遇されていること。

それでも「良い写真を、何故なら写真には何かこれが外に出た時の訴えになるはずだし、これは彼ら彼女ら自身なのだ」という写真に対しての真っ直ぐな気持ちはとても強いものであった。

巻頭何ページかにわたる彼の撮った写真が掲載されている。

その眼を見て欲しい。

何か分からず不安を眼に宿した少女。

ブラッセは生体実験写真も撮らされる。

反抗すれば死だ。

写真家ブラッセの全てがここにつまっている。

臆病な彼も、上官の写真も素晴らしい出来に仕上げたい写真家の彼も、誰かを救いたい勇敢な彼も全部矛盾するものではない。

収容所ものを読むときに記憶が明瞭なのは虐待者ではなく被虐待者だ。

この違いは本当に明確である。

些細なことまで、正直に覚えているのだ。

そこに人間1人の人生の興味深さをいつも思うのだ。

音楽と身体性、francesco tristano+勅使川原三郎+佐東利穂子

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カラス・アパラタスでフランチェスコ・トリスターノ(ピアノ)と共演した勅使川原三郎コンテンポラリーダンス作品「ランドスケープ」の上映会をみてきた。

去年みたので2回目。

コンテンポラリーダンスにはそれ程詳しくないので私がこれを知ったのはピアニストでありクラブミュージックをやり作曲家でもあるフランチェスコ・トリスターノ経由だった。

調べたら勅使川原三郎は相当有名なコンテンポラリーダンサーのようだ。

曲目はトリスターノの自作曲、バッハ、ケージ。

トリスターノの出す不安定そうな孤独なピアニッシモと勅使川原、佐東のダンスは緩やかと激しさや静寂を極め、その空気には何か、重さのある何かが漂っていた。

上映でそうなのだから実際に生でみたら凄いだろう。

暗闇に最小限のライト。

上半身と下半身が全然別の生き物のように動き次の形は想像が全く出来ず驚きと不安さえ生まれる。

不安というよりどうしようもなくひとりであるという安心感と辿り着けなさがそこにはあった。

バッハの躍動感やトリスターノの連続性が醸し出すグルーヴ感、ケージの死んだ腕。

トリスターノのピアノはフォルテは鋭利でピアノは冷たくさみしい。

勅使川原のダンスは脚の見事さを忘れてしまう程の不安定なカタチで身体を保ちガクガクと予測し得ない美しさを生み出す。

佐東のダンスは上半身が柔らかく少し正統性があり激しさの中にも柔らかさはある。

とにかく一貫して言えるのはみんな「決して甘くはなくきびしい物語を綴っている」ということだ。

ゴルドベルクの時の優しさなら少しあるかもしれない。

そこで私は初めて大きく息をはいたからだ。

とにかくダレるところが全くない。

成る程、ピアノを弾く私にとってはこれは音楽が具現化した世界なのだ。

そしてとてつもなく私の好きなきびしい世界の、ものがたりだ。

語りかける者もいない、ものがたりだ。

3作品上映しているので少しでも気になる方は絶対観に行ったほうがいい。

私は次は「メタモルフォーシス」を観にいきます。

公式サイト

http://www.st-karas.com/karas_apparatus/

リチャード・パワーズ「オルフェオ」

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第二回日本翻訳大賞の一般推薦が昨日終了しました。

ぎりぎりまで迷いに迷いに結果リチャード・パワーズオルフェオ」翻訳木原善彦の推薦文を送りました。

掲載されてたのでそれをそのままここに載せておきます。

他の一冊と迷ってたんだけど現代クラシック音楽の小説なんだもん。

私としては「むむ、それだけでは推さないぞ!」と警戒しながら読んだのですがもう文体も丸ごと音楽なんだもん。

2015年刊行翻訳本はこれにせざる得ないところあったよね。

「この本は音楽そのものである。比較的現代クラシック曲を軸に色々な音が絡み合い、主張しあう。内声が声をあげ、文体が口をつぐみ、休符がリズムを作り出し、主人公を取り巻く人々はどこか途切れどこか救いがなく「終末の音楽」を手に持ち混沌を作り出す1人になる。音楽とはなにか?人生とはなにか?そういう物語を聴いてみたくはないか?音楽はどれだけ言葉を尽くしたっていいんだよ、どうせ残るものは音のみなのだから。読みながらあなたの中から音楽が鳴ってはこないか?それはどういう音だろう。」

音楽用語が一般だとちょい難しいとこあるかもしれないけど読んでくれ。

20151129フランチェスコ・トリスターノ。

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去年の夏からブログをサボっていたのだけどやはりこれは記しておかねばならないと思い去年11月29日さいたま芸術劇場で行われたフランチェスコ・トリスターノのコンサートについてまだ感じてることをバッと書いていくことにする。

文字に起こさないと消えていってしまうものは確実にあるのだ。

プログラム

トリスターノ:KYEOTP

J.S. バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825

J.S. バッハ:パルティータ第6番 ホ短調 BWV 830

トリスターノ:主題と変奏(新作世界初演

J.S. バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV 826

トリスターノ:シャコンヌ(グラウンド・ベース)

【アンコール曲】

フレスコバルディ:《トッカータ集第2巻》より〈トッカータ第4番〉

~トリスターノ:ラ・フランシスカーナ

相変わらず攻めるプログラム。

バッハと自作曲を交互にやっていて自作曲はリズム性が高く、グランドピアノの中を手で叩き打楽器としても使うという曲なのにバッハとの組み合わせの違和感は全くない。

彼の自作曲はグルーヴにとんでおり、和音は心地よい浮遊感と張り詰めた打鍵と雫が水たまりに落ちるような輪郭の不協和音が広がる。

聴いてて何処かにもっていかれる。

はじける音は思わず指でリズムをとってしまう。

対してバッハはパッセージの速い曲は内臓が踊るようだし静かな曲は冷たいくらいさみしい。

どうしてこんなにさみしい音になるのだろう。

グールドが優しさを含んだどうしようもないさみしさを後期ゴルドベルクで示したとすればトリスターノのそれは宇宙に取り残されたスプートニクの犬だ。

何もないさみしさの目に映るほんとうの黒。

人間だったら「地球は青く美しい」というのだろうか。

それは個人的な弱音なのだろうか。

折れそうで硬い氷柱みたいに打鍵音が響く。

本当に打鍵音という感じなのだ。

私は彼のどこか個人的なものというより厳しさとも言える弱音をとても気に入ってしまった。

そうだ、私はこんな音を出してみたかったんだと思った。

その時私は弱音の色に悩んでいたのだ。

帰ってからすぐ弱音のところばかり練習した。

彼のくれたものを私なりに咀嚼して吐き出したかった。

精密に同じパッセージを何回も何回も微調整して、ぴたりと当てはまる色を探すのだ。

何よりそれまで悩んでいたために憂鬱だった弱音の練習が、頭の中で理想がカタチづくられたからかとても楽しい時間になった。

コンサートからたった2週間後のレッスン日に師事している先生がとてもびっくりすると共に褒めてくださった。

たった2週間だ。

ピアノは自分は変えたつもりでも他人に伝わる程ではないということは良くある。

だから先生が「とても変わった!どうしたの?何があったの?」と言って下さった時に私は嬉しいより驚いてしまった。

だってまだ全然頭の中の、身体の中の鳴っている音と実際出している音に近づいていないから。

時々、ピアノを練習する前に深呼吸をして目を閉じこのコンサートを反芻してみる。

となるとピアノの練習の実態を知らない方は詩的だな、と思うだろう。

しかし私の練習風景は多分そういうものとは程遠い。

バッハは基本ペダルを踏まないし、音を最初調整する時はペダルが必要な曲も私は踏まないで練習する。

なので足を組んで弾いたり、時間が経つとピアノの椅子の上に胡座をかいて弾いたりしている。

ちなみに椅子の高さは平均よりかなり低い。(グールドほどではない)

それが私のリラックス出来る体勢なのだから仕方がない。

足下には水道水を入れたペットボトルが置いてありちょこちょこ水分補給する。

ピアノ左上には汗拭きシートが置いてある。

あとカフェイン錠剤(合法ドーピングと呼んでいる)

私は手汗は全くかかないのだが胸の間(別に胸は大きくない)と背中に汗がたれてくるので汗拭きシートは必須である。

そしてひたすら黙々と弾きつづげるのである。

今年の三鷹の公演もすでにチケットを取ってあります。

友人2人含めた3枚。

フランチェスコ・トリスターノ布教してます。

写メは良い具合に部屋に日の光が射し込んできたのでそれを利用して撮ってみました。

ローラン・カバッソピアノコンサート。

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ローラン・カバッソピアノコンサートに行ってきました。

ベートーヴェンディアベッリは私の探し方が悪いのかなかなかコンサートで演奏されない曲目だと思うんですけどシュナーベルが「この曲の価値を認めつつ聴衆を一時間も椅子に縛り付けることはできない」って言ってたようです笑

33の変奏曲ですがそれを一曲として弾くことでしか意味がないし、一曲一時間ということになりますもんね。

ディアベッリは上手い人が弾かないと本当につまらない曲になってしまうという演奏力が特に試される曲目だと思うのです。

私はローラン・カバッソを知らなかったのですが2500円だしシュナーベルの弟子にも学んだようだし、ディアベッリの評価が高いようなのでチケット取ってみるか!と軽い気持ちでした。

前半のドビュッシーラヴェルも良かったんですがここは私の目玉のディアベッリ変奏曲に感想を絞ります。

ベートーヴェンに似つかわしい迫力と落ち着きを兼ね添えたフォルテ。

柔らかさは思慮深く。

この33変奏なのでその対比を上手く表現していました。

なのでダレることなくこれがあっという間。

何より良かったのはローラン・カバッソの演奏を聴いて改めて「ベートーヴェンピアノソナタ33番からがあったらどんな進化を遂げただろうか。交響曲風を組み込み、ピアノ協奏曲に近くも全く別のピアノ独奏曲としての可能性があったに違いない」と思えたことです。

ディアベッリ変奏曲は地味に「え、ここはこんな風になっていたの?」という演奏形態が含まれます。

それは意識して弾かないと聴衆には伝わらないものです。

ささやかながら奥深い。

彼の演奏は下手に揺れることなく(下手な揺れすごく苦手なんです)休符を見事に弾ききっていました。

ベートーヴェンらしくあり、ベートーヴェンのあったかもしれない未来形でもあり。

とても幸せな時間を過ごせてもらいました。

これで2500円(全席)。

なんだか申し訳ない気持ちさえします。

アンコールもサービス満点でしたね。

シュットなんかとってもロマンチックであり力強くもありとろけました。

しかしすごい体力。

ピアニストは体力勝負でもあることが良くわかりました。

ありがとう、ローラン・カバッソ