白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

音楽と物語。

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つい先日に柴田元幸編集文芸雑誌monkeyを購入した。

特集は「音楽の聞こえる話」

音楽と文学の関係は前々から考えていたのでこの特集は嬉しい。

先月は読書イベントで音と文学の関係について色んな人に話を訊いてみたばかりだった。

私は村上春樹が好きなのだが彼の著書には音楽が多彩に出てくる。

村上春樹の読書会」ではテキストに出てきた音楽が流れるし、小澤征爾と対談本もある。

個人的に1番クライマックスに音楽が使われた著書は「海辺のカフカ」のベートーヴェン「大公トリオ」だったのではないかと思ってる。

音楽に全く興味が無かった青年星野くんが音楽っていいな、と思い目に見えない「何か」を得たシーンはクラシックピアノを弾く身としてはこれほど嬉しいことはない。

因みに私が普段聴く音楽はクラシック、クラブミュージック、レディオヘッドビョーク辺りの音楽、ボカロ、という順番だ。

音と文学という括りもある。

最初は「文体」ということを感じていた。

例えばカポーティの文体は緻密で少しひんやりとしていて硬めで余計な部分がない。

何処を足しても引いてもダメでそれだけで完璧である。

ピンチョンの文体。

全てが一見無駄に見えて流暢に流れる。

裏ではベースがブンブンとなり続けている。

続けて続けて止むことがなく「鳴り続けていることに意味があるのさ!」とさえ言っているようである。

ドストエフスキーは受難曲のような文体。

一斉にみんなが叫ぶように歌いだし絡み合い時に陽気に、時に厳かに音が重なる。

アゴタ・クリストフの文体。

色々な余計なものは一切省いてそれ故に大事な音符が浮かび上がる。

休符が一体となった文体である。

まだまだ数えきれない位魅力的な文体を持つ作家は沢山いる。

そもそも文体に魅力がないと物語の仕掛けが面白くても読み続けるのは私は困難なのだ。

ところで私は詩が基本的には苦手である。

特に朗読されると苦手だなあと思うところは大きい。

ところが小説の朗読は大好きだ。

昔紙芝居が好きだったのと同じように。

私は柴田元幸が大好きなので彼のイベントにはちょこちょこ行っている。

大抵イベントでは朗読してくれる。

この前はジャック・ロンドンだったし1番近くに行ったイベントではサキだった。

柴田元幸の朗読がまた凄く魅力的だ。

物語に沈み込み物語を愛しているのがわかる朗読である。

翻訳家という職業はそういうものが必要不可欠だからかもしれない。

小説とは聞こえない音を聞こえる音にするものなのだ。

雨の音、暗闇の中に射し込む陽光に浮かぶ古い埃、夢に入る序曲に胸のあたりがぎゅっとする揺さぶり。

けたたましい目覚しのベルと死へ向かう不協和音。

すぐれた小説というものはそういうものがちゃんと聴こえるし流れだし沈黙さえも休符で現れる。

そしてそれは、例え絶望的な物語や音楽でも私に寄り添ってくれる。

私はピアノを弾く時に小説を感じるし、小説を読む時に音楽を感じる。

因みに写真は再読のトマス・ピンチョン「ヴァインランド」である。

私のヴァインランドは旧訳。

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読書会のある場所。

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私はたびたび読書会に参加するのだが1番好きなのは課題図書のある読書会だ。

1冊の本を読み込んできて読書会で分かち合う、知らないものを知る、感じるというのが1番私にとっては濃く楽しい。

同じ本を読んできてそれについて話す時、色んな角度から話す人と触れる。

私は以前「にゃおバスはもう少し理論的に話すことを学んだ方がいいよ」と言われたことがあるのだが、私は「文学」に向かい合った時に理論的に考え話すことを敢えて避けている。

私にとって、と思ってほしいのだが理論的に物語を「分析する」ことは私には他の大事な面白いものを見落としてしまう面が強いからだ。

文学は音、感情、構成、風景、読む人の過去と考え、それにうったえるものとストーリー、曖昧なものの総合芸術だ。

これは何々のメタファーだからここはこうだ、みたいな論法には私はあまり惹かれない。

むしろ、ここは分からなかったんだけど凄く惹かれるシーンで私の中ではリュートが鳴っていた、とか個人感情にうったえる感想にとても興味を覚えている。

勿論読書会では色々な読み方をしてきていい。

様々な読み方を自分と合わなくてもある程度お互い受け入れることは読書会では大切なことだ。

ただ「こうした方が良い」というのはそれはその人の価値観なのであってそれを私に押し付けられても(親切心なのかもしれないが)私には私の価値観があるので困ってしまうのは事実だ。

ちなみに私はもうこの歳なので自分がOKとしているものとそうは思えない線引きは現実社会と関わる上ではハッキリしている。

読書会の上で1番グッとくるのは「私はこういう体験をしたこととこのセリフ、またシーンは何故だか分からないけど共通点がある感覚があり凄く共鳴する。まるでもう一人の私が後ろから囁いているようだ」とかそういう理論的ではないもっと直感的な感想だ。

あと今後読書会の時でも話してみたいのは「音楽、または音について」だ。

例えば柴田元幸さんの朗読なんかを聞くとものすごい迫力に惹きこまれてしまう。

文学は音からも成り立っているからだ。

見えないものだから見過ごされがちだがカポーティなんかは全く無駄のない音(翻訳もだいぶ気を使うだろう)、文節、完成された文体によって削るところも増やすところもない本が多い。

長編は少しだれてきてしまうものだ、それはある程度致し方ない、と村上春樹は言っていたが、カポーティの長編「冷血」はその緩んだところが私には見受けられない。

「これは何々のメタファーだからここは重要なのだ」。

そういう見方もいいだろう。

ただ私にはメタファーはメタファーのままであることでそれを解析することにあまり興味を惹かれない。

解析し終わったあとなるほどという思いがもっと見えない神話みたいなものを潰してしまう非常にもったいないという、これは私の読み方だ。

読み方は自由、読書会で語り合う時理論的でもいいし文学的曖昧な感想でも勿論いい、どちらが優れてるというのはない。

押し付けさえしなければ自分の知りたいと思った感想をもっと聞いてみれば良いのだ。

ちなみに最近「これを課題図書として読書会やってみたいなあ」と思ったのはポール・オースター「闇の中の男」。

これは何回も読み直したい本の一つであった。

現代文学作家。

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私は基本的に海外文学が好きだ。

この「基本的に」というのが難しいところでなにも前提として「海外文学が好き」という意志を持って本を選んでいるのではない。

亡くなってしまった作家で日本をあげれば安部公房泉鏡花川端康成辺りも好きだ。

とりあえず今回は現代作家に絞ってみようと思う。

生きている作家に。

生きている、となるとざっと浮かぶ中では村上春樹トマス・ピンチョンドン・デリーロブレット・イーストン・エリスティム・オブライエン、ウラジミール・ソローキン、ポール・オースター、あと1冊しか翻訳されてないのが非常に残念だが分厚い上下巻で圧倒されたジョナサン・リテルなどがいる。

これは今パッと思いついた限り。

この中に現代純文学作家で日本人は村上春樹しかいない。

大抵の書店に行くと日本人現代純文学作家のコーナーは広く展開されてるので色々試してみたのだが結果イマイチなのだ。

何故か。

まず1度読めば充分というか分かってしまう。

私が求めているのは一回読んだだけでは理解出来ない混沌とシュルレアリズムや醜いものを醜くく、汚く、しかし寄り添えるように書ける人物が出てくるものだ。

やり切れない思いを美談に仕上げないもの。

特に現代純文学日本作家には混沌とシュルレアリズムと訳のわからなさが足りないと痛感している。

これは一体何だったんだろうと心揺さぶられもう一回、またもう一回読まないと何が自分の心を激しく揺さぶったのかわからない、という魅力がどうもない。

それ以外を求めるのなら日本作家で手が伸びるのは分野としてはSF、ボーイミーツガール的なものを求めるなら設定として面白いライトノベルの方に手を伸ばしてしまう。

このラノベ分野なら圧倒的に日本作家が好きだ。

もともと漫画が好きだ、というのもある。

現代純文学日本作家を読んでやっぱりダメだったなあ、悪くはないと思うけど。。というのを読んだ後にその作家が売れているというのを聞くと「日本人はわかりやすい物語を求めてるのかな」と思う。

あと「こうなって欲しい!」というある種の美談。

私はさっきも述べたとおり村上春樹が好きだ。

彼の作品は全部読んでいる。

ただ勘違いしないで欲しいのは「彼が日本人だから好き」なのではないということだ。

日本含め世界文学の中から選んだ結果たまたま村上春樹が入ってきたのである。

ちょっと視点を変えてみる。

音楽を、絵画を、写真を、映画を摂取したいと思う時に日本の枠だけから選ぶのと世界の中から選ぶのではどちらが世界が広がるだろう?

どちらがより厳選されるだろう?

つまりはそういうことだ。

ただ海外文学は何と言っても翻訳者がいなければ私は太刀打ち出来ない。

という訳で私は翻訳者にとても感謝の念を抱いている。

古典ならまだしも海外現代文学なんかは文庫化どころか単行本でも出版されて間もなく廃刊になってしまうことも多い。

ということは翻訳家は割の合わない仕事なのかもしれない。

でもその本が好きで「是非読んで欲しい」と頑張っている翻訳家は多いと思う。

本当にありがたいと思う。

最近「日本翻訳大賞」が出来たのも応援したい。

ちなみに海外文学初心者の方は海外の中でもアメリカ文学がとっつきやすいと思う。

あるいは映画化されたものの原作を映画を観た後に読むのも入り込みやすいだろうと思う。

つらつら述べたが期待している日本現代純文学作家では円城塔(ただ私はハヤカワ文庫のSFしか読んでいないので道化師の蝶も読みたい)と舞城王太郎がいる。

ちなみに写真で持っている本はドン・デリーロ「ボディ・アーティスト」

彼は世界的には評価されているのに翻訳ものがかなり廃刊になっているのが悲しいところである。

熱心な村上春樹ファンでありミーハー心で毎年「村上春樹ノーベル文学賞とってくれたら彼のスピーチがきける!」と楽しみにしている私だが心の中ではドン・デリーロあたりがとってくれたら復刊するから彼がとって欲しいかも、と思っていたりもする。

どのみち村上春樹自身はノーベル文学賞に興味がないというか、あんなのとったら色々やんなきゃいけないからやだよ。。っていう人だし。

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ホロコーストもの書物から感じること。

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私は何故かホロコーストものに惹かれる。

ノンフィクションにこだわりがあるという人もいるが私はノンフィクション、フィクションを区別することをあまり重要なものだとは思わないので両方読む。

要は作者が原稿に真摯に向き合っている本が大切だからだ。

因みに写真はジョナサン・リテル「慈しみの女神たち」でフィクション。

ナチス側からのホロコーストものということで珍しいというのと少し立ち読みをして綿密な調べを詰めた上での物語だと確信し、上下巻で約1万円だったが買うに至った。

これは本当に買って良かった本の一つだ。

最近読んだホロコーストもので良かったのはルート・クリューガーの自伝「生きつづける ホロコーストの記憶を問う」である。

アウシュビッツ収容所での年齢での彼女は当時13歳。

少女ならではの視点が描かれているが彼女は鋭い。

ホロコーストを体験したのは確かだがそれは私の青春の中で生き延びたというものであり、「ホロコーストを体験したものたち」という括りにされるのを彼女は拒否している。

これは一緒にしてはいけないかもしれないが私個人はとある事件に遭ったことがあるのだが「事件に遭ったかわいそうな人」という括りを嫌がるのと似ていると共感を得た。

だいたいホロコーストに遭ったもの達は大抵外側から「ホロコーストに遭ったならこういう感情を抱いたに違いないでしょう」と言われるのを嫌がる者も多い。

それは全て「個人的な感情」を無視されているのと同じだからだ。

そして同じ体験をしたからと言って「分かるよ」と安易な同族意識もとても嫌がるし、逆に嫌がるということはそういうもので同族意識を強要してくる者が多いということだ。

これはヴェトナム戦争ものを読んでも言えるし、新しいのでまだ読んではいないが東日本大震災の被害者ももちろん一人一人の物語があるのだから一括されることに拒否感をもつ方も多いのではないか。

良いインタビュアーはそれを心得ている。

例えばスベトラーナ・アレクシエービッチ「チェルノブイリの祈り」を読んでも私達が勝手に想像しえる言葉とは全く異なっていて、一人一人の抱える「本当の」言葉はどうだったのかは意外な言葉を発するし、村上春樹アンダーグラウンド」で地下鉄サリンの被害者62人へのインタビューは62人の多様な人生の中で起きたこと、そして一見複雑で理論的で考えている故にオウムに入ったのではとよくクローズアップされるオウム側への村上春樹がインタビューした「約束された場所で」と対比すると、彼ら彼女らは確かに社会に疑問を持ち考えてはいるのだが深みで言ったら彼ら彼女らからすれば「平凡」という「アンダーグラウンド」62人のインタビューの人生のが圧倒的に面白いのである。

これは62人が生い立ちから話を聞けることがとても良かった。

遭ったことだけのクローズアップではない。

その人達はどういう人生を送ってきてたまたまこういうことに遭ってどう思ったのかが丁寧にインタビューされている。

ルート・クリューガーはまさにこの点を大切に描いている。

当時女性は男性より下だったのでその不満もたっぷり描かれている。

少女らしく生意気(それが魅力なのだが)な面。

収容所で生き延びるための全力の知恵。(ただし知恵を振り絞ったからといって生き延びることが出来る世界ではない)

母親への分かり合えない不満。

「生きつづける」とは収容所から解放されアメリカへ渡った時のことも描かれているのもとても面白い。

お友達にダビングしてもらったNHKBSで放送された「ヒトラー・チルドレン」という海外製作ドキュメンタリー番組も先日みた。

これはヒトラーの側近、ヘスやヒムラーなどの子供や孫がインタビューに応じる番組であった。

インタビューに応じた方はみんな血筋を受け継いでいるということに苦悩や恐怖を感じて生きていた。

私は子供や孫には罪はないと思っている。

何しろ本人ではないし、ヒムラーやヘスの親ではないのだから。

ただそれは外側からの意見でありそう言ってくれる人もいるとは彼女ら彼らはよく分かりながらもそう言う理屈とは別に苦しんでいるのだ。

1人はアウシュビッツ収容所にジャーナリストと共に行くということにした。

このジャーナリストはホロコースト被害者として経験した人物だ。

そしてどうしようもない苦しみが表情から伝わってくる。

彼はホロコーストで家族を失った子供たちとそこで対面した。

「あなたは恥ずかしいと思わないのですか?あなたのおじいさんに会えたらどうしますか?」と涙ながらにその少女は彼に質問する。

彼は答えた。

「私は恥ずかしいと思っています。祖父に会えたらこの手で殺してやりたいです。私はあなた達に会えたことを嬉しく思います。」

双方とても苦しそうだ。

胸が詰まる。

その中の1人、ホロコーストにいたユダヤ人の老人が「君は悪くない」と彼を抱きしめる。

彼は泣くまいと決めていたがもうダメだった。

そして拍手。

私は見ていてこれで彼は自殺をしないで済むかもしれない、と思った。

それまでの表情ではもしかして彼は自殺してしまうのではないかと危惧していたからだ。

そして最後にこれまた印象的な言葉を見る。

同行したジャーナリストの言葉だ。

要約するとこうだ。

「これは確かにハッピーエンドを迎えたかもしれません。

でもそれは本当に稀なことです。

誰しもホロコーストに何かしらのハッピーエンドを求めるのです。

でも現実はそうではありません。」

彼の表情はこの一種の和解に抵抗している感があった。

ホロコーストという地獄を体験したものは当たり前だがその者を糾弾する権利がある。

だが今はその者は処刑されいない。

では誰に怒りをぶつければいいのだろう。

怒りをぶつける相手がいないことほど苦しいものはない。

ジャーナリストはアウシュビッツを訪れた彼を理屈的には怒りをぶつける相手ではないとは分かっていたと思う。

でもどうしてもこの一種のハッピーエンドを目の前に、彼が救われたことに怒りを持っているように思われた。

これは本当に複雑な問題なのだ。

行き場所がない。

救いだって奇跡のような確率でしかない。

ランズマン監督の「不正義の果て」もとても複雑でそこにしか居なかったもののインタビューであった。

これは映画で観たのだが4時間弱という長さにも関わらず圧倒的な主張であったためあっという間だった。

もう一回観ておけば良かった。

自分の思考と体感と村上春樹。

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Photo・hideki hiruta

写真は私の好きなフォトグラファー蛭田さんに撮って頂いたものです。

私は作家・村上春樹が猛烈に好きなのですが一番最初に読んだのは確かちょっと遅く高校1年生の時なんですね。

ダンス・ダンス・ダンス」でした。

最初の「自己紹介の無意味さ」みたいな語りから最後までグッと掴まれっぱなしでそのあと慌てて刊行されてる彼の本、エッセイも含めて全部買い漁り読み漁りました。

2年間位没頭してたある日彼のエッセイにこんなことが書いてあったんです。

「他人が考えた大きなことより自分で考えた小さなことが重要」

私はその頃はもう村上春樹信者と言える位で考え方が全部村上春樹的になっていた。

それで「がーん!!私もしかして自分で考えてない!!」とだいぶショックでした。

という訳でとりあえず村上春樹断ちをすることにしました。

村上春樹が1番精通しているのはアメリカ文学だと思ってたので(後々考えたら全てに詳しかったのだが)アメリカ文学もとりあえず中断。

ラテンアメリカ、フランス、ドイツ、チェコ、ロシア、と何も道標のないまま読み始めました。

古典文学は残ってるだけあってアタリも多かったけど現代文学は現代文学で面白かった。

海外文学はそれまではアメリカ文学しか殆ど読んでなかったので他国の本は最初は多少読みづらかったけどそれも最初だけですぐに夢中になった。

読む時は五感を開いてズブズブと本に沈みこみ、ページを閉じた後の世界を見る目が変わることが興味深かった。

色んな作家の物語と文体と肌触りに触れてそこから自分の考え方や感じ方、何より「自分がここにいる実感」がありありと飲み込めた。

そうして1年間たった後にふと村上春樹をまた読みたいなと思った。

通学電車に揺られている時だ。

色んな人がいるなあ、とぼんやり思いながらまた村上春樹に会いたいなあって。

そして私はまた村上春樹を読んでみた。

それは相変わらず面白くて芯を突いてきて、でも「ちゃんと私はここにいた」。

1年間村上春樹断ちをしてきて、本で世界中の文学に触れて、それで村上春樹が好きだったらもうこれは本当に好きなんだから素敵じゃないか、と思いました。

村上春樹はこういうようなことを書いています。

「批評家は批評するのが仕事。

僕は読者の声が聞きたい。」

「僕のハウツー本がたくさん出ているみたいだけど個人的な意見を言わせてもらえれば、そんなものを読むよりそのお金で何か美味しいものでも食べながら僕の本に書かれてることについて自身で考えて欲しい」と。

これは音楽でも言えることですが、批評というのは殆どつまらないものが多い。

経験から言って面白いのは翻訳者の声、一般人の貪り読みしてる人達の声だ。

そんな切り口をしてくるかあ!ほほう!と思うお友達も、趣味に生きていたら沢山出会えた。

みんな真剣に語るのでこれはなかなかスリリングな体験でもある。

そして勿論私の譲れない芯もある。

押し付けはしないけども、自分が考えていることはこういうことよ、と提示出来るのは大事で、そこはブレてはいけない。

そうでなければ何かを書けないし、ピアノも弾けない。

どういう意図で何を表現したいのか。

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ピアノのレッスンで言われること。

「ここはどういう意図(またはイメージ)でこういう表現にしたの?」

1番ありがちで1番まずい回答は何も考えてなかった、ということにつきます。

イメージや意図を持っていてここはこうだから(この旋律が魅力的だから強調したかったとか)こうしたのだ、と答えられれば多少ズレていても、いや、ズレているなりに「ではこうじゃなくこうした方が効果的なのではないか?」という1人では気づけないアドバイスがもらえるからです。

音楽記号もそうです。

例えば音楽記号と違う演奏をする場合でも「作曲家が何を表現したくてここにこういう音楽記号を記したのか」を思考した上で違うことをやるのとただ自分の気分でやるのとは表現が明確に違ってきます。

手の力の入れ方、音節のとり方、一見聞いて分かる様な指導もされますし、「ここは地鳴りがするように、その後静けさがくる」とか「石を打つように」とか音楽を長年やられてない人には分からないかもしれない表現で指導される場合もあります。

後者の場合一見ハテナ?と思う方もいると思うのですが幼少の頃からピアノを習っているとそういう表現でもすんなり理解出来てしまうのです。

というか音楽ってそういうものだと思っていましたし、今もそういう風に思っています。

例えば私は昔の国内の作家では泉鏡花なんかが好きなのですが彼の文学にはそんなような表現は多数出てきますよね。

水を打った、とか日本語も確かありますよね?

今はカネッティ「眩暈」とその合間にカフカ「短編集(再読)」を読んでいるのですがキーン教授が沈黙を愛するように、とか、カフカの辿り着けない城の思考で、とか言われたら自分なりに色々弾いてみて試したりします。

そういう変換が得意でないとピアノで表現するのは難しいと思います。

ラフマニノフ前奏曲「鐘」も私は川端康成の「眠れる美女」の醸し出すような妖しい演奏が好きで、このピアニストはそういうのが出てていいなぁとか色々なCDを聴いてて想像します。

あとこれはとても重要なことなのですが、ピアノに関わらず何かを表現する人なのにその分野で他の演奏家や絵だったら画家、写真だったらフォトグラファーを知らないという人がびっくりする程多いのです。

私は短編小説も書きますが小説を書く人が色んな小説を読んでないということを知っているのでちょっとおいおい、と思います。

だって好きなんでしょう?

だったら勉強じゃなくて大前提として色々知りたいしそれは楽しいことでしょう?

小説に関しては特に海外文学が売れていないのは信じられないです。

良いものを探そうと思ったら日本国内のみで選出するより世界から選出する方がより良いものに触れられるはず。

スポーツだって国内大会より国際大会の方がレベルが高いはずです。

話が若干逸れてしまいました。

小澤征爾村上春樹の対談集」で後半に小澤征爾が教える学生弦楽四重奏だったと思うのですがそれが一週間で相手の音を聴き、音楽が格段に良くなったことに村上春樹は驚いていました。

私はピアノのレッスンを受けていて一回一時間の間に自分でも驚く程変わるということを知っているので、そりゃ小澤征爾が一週間教えたら格段に変わるよ、と思った覚えがあります。

それと私はピアノと小説という分野ですが、芸術は繋がっているので映画を観たり写真に触れたりするのも楽しくて接しているのが大前提なのですが「結果的に」ピアノにも小説にも還元されていきます。

沢山聴くこと、考えること、想像力を働かせ音に還元すること、これを補佐しているのはどの表現者のものを見て吸収することも大切だと思っています。

ピアノと読書へのゲリラ豪雨。

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ずいぶん前に友達から借りていたエリアス・カネッティ「眩暈」を読み始めました。

まだ序盤ですが面白いです。

知らなかったんですがノーベル文学賞受賞者なんですね。

合間にカフカの短編集も読んでいるのですがカフカは色々な想像が出来、小説でしか表現出来ないものを生み出しているので素晴らしい作家だと思いました。

もともと好きなんですけど再読すると新しい気持ちが湧いてきます。

バッハのカンタータをピアニストフランチェスコトリスターノがピアノ編で弾いてるのを聴いて、カンタータのCDが欲しくなり、Amazonでいくつかカゴに入れておいたらカネッティを貸してくれたお友達もカンタータYouTubeで聴いて欲しくなりバッハ全集160枚BOXを買ったときいて敵わない。。と思った次第です。

磯山雅「バッハ 魂のエヴァンゲリスト」という本が気になっていたので購入しました。

桜並木を散歩していたら圧巻なまでに咲き誇っていた桜は殆ど葉桜になっていた。

でも葉桜も逞しく青空に映えていた。

桜は儚くない。

圧倒されるのは短い間だからこそ愛おしいのだ。

それを瞼の裏に咲かせる。

ビッグ・ブラザーは過去のものになりつつある。

リトル・ピープルがそれに代わる。

リトル・ピープルはアイデンティティーの喪失、社会への絶望につけこみ、正義の服を着てやってきた。

何かを真っ直ぐ考え込んだ人こそ飲み込まれる。

馬鹿馬鹿しいと、私達は本当に切り捨てられるのだろうか?

ゲリラ豪雨が窓を叩きつけた。

彼女は外に飛び出しこの身体を叩きつける実感が欲しいと思った。

でもそれは本当のことだろうか?

身体に受ける刺激は一過性のもので単純なものではないのか。

豪雨を聞きながら目を閉じる。

ここに必要なものは何だろう。

彼女が本当に必要としてるものは何だろう。

硬く閉じた目をひらき、ピアノに向かう。

この豪雨の中、弾くべきものはバッハ以外にはない気がした。

ゴルドベルク。

休符を如何に大切なものとして扱うか、どの旋律も大切な意味がある中、どれを強調して弾くのか。

どこをとっても大切なメロディーが同じように多旋律で流れている。

隠れていた音を見つけると胸が締め付けられるほど美しいと思えた。

それに並行して相変わらず豪雨は止まない。

豪雨は彼女でそれを内包するのがゴルドベルクだった。

本当に彼女の抱えた絶望に寄り添ってくれるのはバッハだと思った。

或いはカフカ

彼女は自身を憎悪した彼女ごと許されている感情を持ちながら奏で続ける。

愛しすぎて敵わないあの人をふと想う。

どうしたってあの人の真っ直ぐな視線が欲しかった。

そしたら食い入るようにレーザービームをおくる。

優しくある余裕なんてないくらいに。

でも柔らかくはありたい、そういう矛盾。

重なり合っても重ならない部分こそ魅力なのだ。

そうだ、常に重なり合いたい関係なんてつまらないでしょう?

芸術だけと一体になりたい。

ゴルドベルクはそれを想起させてくれた。

やがて夏の陽光が緑に降り注ぎ始めるだろう。

目覚まし時計にけたたましく起こされオレンジジュースを飲み、ストレッチをしてピアノに向かう時期、彼女は何を弾く曲に選ぶのだろう。