白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

救いとは。

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私は基本的に「救いのない物語」が好きだ。

映画でも小説でもなんでも。

別にハートウォーミングされたくないので。

例えば最近観に行った映画「エレファント・ソング」はとても良い感じに救いがなかったけど1番最後にベンチで2人が寄り添うシーンは私にはとても蛇足であった。

「でもまあそこから破壊の始まりかもしれないよね」と観てしまう始末である。

ただ救いようがない物語というのは描くのに本当に難しい。

幸福の形は一つだけど不幸の形は千差万別みたいなこと言った有名な作家って誰だっけ?って思って適当なワードで検索したら分かりました!

トルストイアンナ・カレーニナ」冒頭の「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である」

救いようのなさには鋭い着眼点が必要だし、それに伴う説得力がないとだいぶチープになる。

「こういう状況に置かれたらこうなると思ってたけどその発想はなかった!」というものがあると良い意味でその物語に酔ってしまう。

家族映画では「ツリー・オブ・ライフ」とか写真に原作を持っている「少年は残酷な弓を射る」は秀逸だった。

残念ながら廃刊が多いドン・デリーロもある意味救いがないし、ティム・オブライエンなんか本当にゴツゴツしてるけどそのスタイリッシュじゃないあからさまさがまた力強く救いがないし、皮肉を交えたユーモアでせめるカート・ヴォネガットなんかも実はコメディちっくにみせて同じく、なのだ。

ある種の救いがあるために救いがないのがカポーティかもしれない。

心温まる話でも何処か心を刺される。

近々観に行く映画で抉られそうなのは「ルック・オブ・サイレンス」。

それに向けて前作「アクト・オブ・キリング」をDVDで再鑑賞したのだが、殺しを喜んで再現していく最初の顔がどんどん変化していく様はドキュメンタリーならではと思った。

こうした突っ込んだドキュメンタリーは日本人には作れまい。

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スクリャービン。

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今はバッハブゾーニシャコンヌを弾いているんですが次の曲は「スクリャービン ピアノソナタ1番が弾きたいなあ」と思っていました。

しかしピアノソナタ1番というのは人気がないのかソナタ全集じゃないと入ってないんだよね。

2枚スクリャービンソナタ全集を買ったんだけどヴラディミール・アシュケナージソナタ全集が良かったのにはちょっと驚いた。

アシュケナージのピアノは結構色々そつなくこなすけど「これだ!」って個性はあまり見受けられないと思っていたので。

指揮者としてのアシュケナージはピアノ協奏曲の時はだいぶピアノの魅力を引き出すオケをするのでキーシンとやったプロコフィエフピアノ協奏曲3番なんかは完璧に最初から最後までワキュワキュした。

私がもしピアノ協奏曲を弾けるならばその時はこの曲を弾いたい!と決めているのだ。

とにかく最初から最後まで夢見るようで鋭い気を抜けない楽しさが続く。

まあ協奏曲なんて大それたことは私の実力じゃ叶わないわけだが。

さて、次の曲はスクリャービンピアノソナタ1番全楽章を弾きたいと思ってる。

シューマン幻想曲全曲も魅力的だがここはスクリャービンでいきたい。

今がバッハだから全く違う方向のがいい。

はてなブログの読者にさせてもらってる方がそんな折にMARIA LETTBERG「スクリャービンピアノ全集」を購入していらっしゃった。

私もチェックはしてたのだが全集なのに安いけど知らないピアニストだったのでちょっと躊躇していたのだ。

でもスクリャービンピアノ全集で安いし音源も古くないようだ。

スクリャービンは全体的に好きな曲が多いし何より抜粋だとピアノソナタ1番の録音されたCDは少ないので次弾くならやっぱり買おう!と思い購入。

今日届いたばかりなのでまだ未開封だよ。

アシュケナージはちょっと個性派なスクリャービンを丁寧に弾いてたことでスクリャービンの魅力が浮き上がる感じだったけど彼女はどんなスクリャービンを聴かせてくれるのか楽しみ。

私はピアノを弾く時は特にグルーヴ感を出したい。

これは一時期クラブミュージック、あるいはポストロック?だっけ?あそこら辺をだいぶ聴いてた影響もある。

今の若めのピアニストはそれに触れてるので昔のピアニストにはないグルーヴ感を意識していることも多いとフランチェスコ・トリスターノの演奏を聴きに行った時に肌で感じた。

彼はアメリカに行った時にクラブミュージックに触れクラシックと同時にクラブミュージックのアルバムも出している。

そしてバッハが大好きというのも面白いところだ。

実際コンサート行くとペダルを踏まない右足もトントンとリズムをとっているし背中も飛び上がっている。

音のリズムの渦に巻き込むピアニストだ。

彼は作曲も出来るし、今生きてる中で一番好きなピアニストなので輸入盤含めて手に入れられるCDは全部持ってるし11月のコンサートも前売り発売日に電話して取るんだーい!

さて、スクリャービンピアノソナタ全楽章は各楽章の表現力が試される曲だと思う。

雰囲気的にもちろん一貫性はあるのだが色々なテクニックと全楽章通しての文学的にどう私なりに組み立てるのか、聴いててそれが難しいだろうなと思っている。

特に私は何も考えないと勝手にフォルテにしてしまうので最後をどう張り詰めた緊張感を維持するかが課題になってくるだろう。

ところでこのピアノソナタ1番はショパンの影響を受けていると言われるのだが私はショパンピアノソナタ3番以外はあまり好きではないのにスクリャービンのこの曲はとても魅力的だと思うので不思議なものだなあ。

その次がシューマン幻想曲全曲(アルゲリッチポリーニ内田光子で聴き比べが面白い。同じ曲とは思えない)かベートーヴェンピアノソナタ30か32かディアベッリがいいなぁと思っている。

根本的にはバッハをブゾーニやケンプやリストが編曲したものが大好物なのだが色んなものを弾きたいので。

しかし今日のピアノレッスンはとても勉強になりかつ面白かった。

先生に幾つも細かく提案していただきその中から「あ!これが良いです!」と選び、そこからシャコンヌに生命が吹き込まれていくのを肌で感じた。

私は細かい表現の幅が狭かったのでこれまでの私のシャコンヌは死んでたんだ!とさえ思った。

あとは奏法的な技術の練習方法の悩みにも分かりやすく教えていただいた。

これはすぐに直るものではないので根気が必要だ。

より私らしいピアノを追求していくことはとても面白い。

私には読書することも小説を書くこともピアノを弾くことも同じ様に必要なのだ。

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百合と少女についての考察。

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私はBLも好きだが百合も大好きだ。

自分で描く絵は女の子を描いている時の方が圧倒的に楽しい。

というか女の子しか描けない。

小説だと男性も女性も書けるのでこれは単純にビジュアルとしてのことだと思う。

さて、BLのマンガよりは百合マンガの方が圧倒的に普及は少ないがここ数年では雑誌「百合姫」など一般にも認知されるようになってきたと思う。

アニメなんかも「まどマギ」1番最近で「ユリ熊嵐」だろう。

百合について語る時には「レズビアンにとって百合は受け入れがたい」ということが流布されていることも頭に留めてあるが、あまり難しくは考えたくないので単に百合が好きです、みたいな形でいってみたいと思う。

幼稚園の頃にお絵描きをする時「お姫様」を描くというのは女の子ならみな経験があると思う。

私は雑誌りぼんを買っていたので小学生の時はそれを模写してたし、中1でBLに目覚めても描いていたのは女の子だったし、エヴァにハマった時はアスカばっかり描いていた。(ちなみにアスカは14歳の女の子にはかなり共感を得られるんじゃないかと思っている)

小学生高学年から女の子の身体は女性に変化していく。

おっぱいは大きくなるし、おしりも丸みを帯びてくるし、何より中学生ではみんなだいたい生理が始まる。

この生理というやつが1番厄介で男の子は「痛いからイライラするんだろう」位の認識なのかもしれないけど実際はそうではなくホルモンバランスの変化により情緒不安定になったりするのだ。

それは生理をむかえたばかりの女の子には結構つらい。

それでなくとも思春期なのに。

私はとにかく自分の身体の変化がいやだった。

男の子と同等だったのに男の子は女の子のことを「性的対象」としてみてくるのが分かる。

それにBLが純愛だと思っていたので男女愛なんて子供を残すという本能で結ばれる面もあるんだから「そんな愛は本物じゃない!」とかも。

「性的対象」として見られてくるにつれ自分の身体が汚らわしく思ってた。

と矛盾するかもしれないが自分じゃない他の女の子を見るのは好きだった。

今もかっこいい男性を見てもというか、居ても見ないけど可愛い、綺麗な女性がいるとガン見してしまうし幸せな気持ちになる。

中学生の時流行っていたのはカーテンの影に隠れてお互いおっぱいを揉み合って「わー!何々ちゃんのおっぱい柔らかーい!」とか言うことだ。

必要以上にベタベタするのも女の子の方が多かったと思う。

私は精神的なベタベタは嫌だったから全然加わらなかったけど触ったり触られたりするのは大好きだった。

もしかしたらそれは他の女の子を介しての自分の身体の肯定だったのかもしれない。

手を繋ぐのも好きだった。

手を繋ぐというのは女の子の間では当たり前の行為だ。

それからカーテンの陰に隠れておっぱいを揉み合うとかいうのは、何だかとても「共犯者」に似ている。

私たちは一緒とかでは全然ないし馴れ合いなんか絶対しないけどお互いしか分からない直感があるのよ、秘密の直感が。

というような。

私は男の子達の友情に憧れてた。

と同時に男の子達には無いであろう「共犯関係」も私たち女の子にはあるのよ?知らないでしょう?とも思っていた。

その一体にならない感じを表現してくれたのが「百合」というジャンルである。

百合マンガには比較的性的な描写は少ないかあっても直接の描写は少ない。

キスなんか大切なようで何でもないような。

ただそこから先にはあまり行ったりしないしいってもじゃれ合いみたいなものが多い。

そう、カーテンの陰なのだ。

実際私は高校生の時、音楽科で1年生から3年生まで男子は2人という階だったからか殆ど女子校みたいな感覚だった。

その中で女の子同士で付き合ってる子もいたし、実際私も告白されて特別好きだった訳でもないのに何だか可愛いなあって思って付きあった。

でもお互いキスだけで満足してたのでこれは付きあったという範囲なのか分からない。

何といっても依存させなかったし依存しなかった距離のある関係をお互い出来たのが心地よい。

でも私たち女の子は飽きっぽいので半年で別れてしまう。

今はどうだろう?

同じ年の男性と付き合って10年位になるけど。

でもその前は別に男の子でも女の子でも構わない時期があった。

20代の時。

ただ自分の趣味に構うのが先行してたのと、私の趣味はだいたい男性との方が合うことが多いので友達は今も圧倒的に男性の方が多い。

今もありがたくBLも百合もいただいている。

池袋ジュンク堂書店の好きな理由を語ってみる。

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私は池袋が近いということと、池袋ってぶらぶらしてても平気みたいなとこと乙女ロードと女性とらのあながあるとこと池袋ジュンク堂書店があるとこが大好き。

週一で池袋ジュンク堂書店には通ってる。

何故に池袋ジュンク堂書店が好きなのか、それを今回は語ってみたいと思うの。

決して関係者じゃないし回し者でもないですよん。

まず私は3階の文学コーナーに行く。

エレベーターを上がったすぐのところ、つまり1番目立つ位置に海外文学コーナーがある。

これはだいぶ珍しい例だと思う。

海外文学ハードカバーコーナーというのは大抵あまり見向きされない、売れない。

国別で海外文学コーナーで他の大型書店より大きく展開している。

そこの新刊平積みのチョイスがまたいい。

ちょっと知らなかったようなものもポップで紹介してあったりしてこのコーナーを担当してる店員さんの「是非読んでほしい!」熱さが伝わってくる。

1冊15,000円の詩集でも置く。

セリーヌ全集とかも置いてある。

セリーヌは文庫化されているのしか読んでいないので全集は結構欲しいと思ってる。

Amazonもよく利用するが海外文学ハードカバーはやっぱりちと高いので立ち読みしてから買いたい。

ネットだと出会えなかっただろうなという最近買った著書にハンス・ファラダ「ベルリンに一人死す」がある。

帯には「60年以上を経て、いま世界を震撼させるリアリズム小説の傑作」とある。

裏にはプリーモ・レーヴィのコメントつき。

彼が最高傑作というならこれは読まなければならない、何故なら彼はアウシュビッツの体験を「あなたには決して分からないだろう」と言いそれと同時に「想像してみてほしい、これが人間か」と述べているからだ。

これは一見矛盾するようで矛盾しないものである。

とにかく「これを陳列するのかあ!やるなあ!」というものが多いのでここで大分足を止めてしまう。

そして是非ゆっくり読んで下さいねというように椅子がいっぱい置いてある。

それから私は文庫コーナーに行く。

先程述べたように私はここには週一で通ってるので新刊文庫コーナーをチェックするだけでよい。

海外文学文庫と日本SF文庫と最近出てきたラノベと文学をミックスさせたような本をチェック。

ちなみに現代日本文学に殆ど関心がない私はそこはスルー。

そして時間的に余裕がある時は4階「哲学・精神・歴史」の階に。

精神医学コーナーは以前は関心があったが今は河合隼雄さんの本だけ読んでればいいかな、となってる。

精神医学という書物の多くは「こういう行動に出るのは精神医学上こういう心理からだ」とそこで思考停止させてしまうものがある。

それよりもユング的に(ユングに詳しい訳ではないが)夢は夢のまま、メタファーはメタファーのまま、のような文学的な広がりの方が人間の多様性を認めることになるんじゃないかと思いだした。

それはやはり河合隼雄の対談や本の影響が大きいと思う。

最近デビューしたのは哲学だ。

考えに考え抜いた哲学というものには以前から触れてみたかったのだが文体の難しさから苦手意識があった。

翻訳が原文は簡単なものをわざと難しくしてる、という意見も目にする。

文学について語る哲学、ホロコーストみたいに関心のある哲学だととても入りやすく興味深く読めることに気づいた。

カフカについては有名な哲学者が語ってるものが結構あるのは面白いと思う。

何について哲学するか、その何とは具体的であるほどとっつきやすい。

例えばトーマス・マンフルトヴェングラーの哲学。

先に挙げたカフカについて。

色々な文学における嘔吐の表現について。

ホロコーストの中の音楽について。

何故ドイツ国民は戦争に走ったかについて。

神話について。

などなど。

哲学とは違うかもだが私は民俗学なんかも好きだ。

妖怪についてとかは文庫化してあったりして著者を選べばこれがまた凄く面白い。

まだハードカバー哲学コーナーはほんのかじりなのでそのコーナーを前にすると圧倒されてしまう。

小説コーナーは全然そんなことないのに。

ところで先ほど挙げた「ベルリンに一人死す」だが4,500円プラス税なので欲しいと思った翌月お金が入ってからにしようと入ってから行ったら置いてなかった。

早く読みたかったのでAmazonで買おうかとも一瞬思ったのだがこれを陳列した店員さんはこの本が売れて嬉しかったに違いない、ならば私も欲しい人です、それにこの本屋にはお世話になってる意味をこめて取り寄せてもらった。

その後見てみたらこの本はまた陳列されていた。

私が取り寄せてもらった時に2冊取り寄せて1冊陳列されたんだろうと思って嬉しかった。

誰かまた立ち読みして欲しくなって買っていってくれたらいいなと。

写真はドン・デリーロ「ホワイト・ノイズ」

好きな作家でアメリカでの評価も高いのだけど日本では廃刊も多いということで悲しい。

これも今は廃刊。

「喋る落書き」ショートショート。

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学校が授業中の静かな廊下を今の時間使われていない音楽室に向かってそっと歩いていた。

静かに扉を開け、忍び込む。

そして彼女は慣れた手つきでレコードを取り出しそっと置いた。

グールドの演奏するバッハは空気を柔らかく震わせた。

1955年版ゴルドベルクが彼女のお気に入りだった。

その躍動的なリズムを指でトントンととりながら机の落書きにふと目をやる。

そこには「PEACE」と書き殴られていた。

その乱暴な文字を彼女はそっと撫でる。

そして机に突っ伏し落書きに耳を当てた。

誰かが遠くから喋っていてそれはバッハの多声部の一部となり絡み合った。

その声は彼女をとても孤独にさせたので全ての旋律を隅から隅まで聴き取ろうと耳を澄ませた。

彼女はひとりぼっちでいてもいい教室を愛した。

彼ら、彼女らはみな統制された教室でなんでもない言葉を机に向けて語りかけ、その声は浮かび上がり、音楽と同じように震えたあと消えていった。

補足

これは6次元カフェで行われたショートショート講座で作ったものです。

表紙描いたり(これ10分位だしつけペン持ってこなかったので手持ちのサインペンなのでクォリティの低さは突っ込まないでー!)豆本にするのに原稿用紙ペタペタ貼ったりした時間も含めてたので文章は書き始めてからは30分くらいでのものなので推敲時間は殆どないのですが良い点悪い点があったら是非教えて下さいませー。

挑戦哲学書。

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私が1番よく読むのが海外文学。

日本現代では村上春樹舞城王太郎

マンガ。

河合隼雄はどれに分類だろう?

嫌いなのはハウツー本。

苦手だけど興味があって読んだけども挫折してきたのが哲学書である。

一週間に一度は池袋ジュンク堂に通っているんだけど3階の小説コーナーを一回りしてめぼしい新刊が出ていないと4階の精神・哲学・歴史コーナーに足を運ぶ。

最近哲学書でも種類によっては面白く読めるものがあるのに気づいたからだ。

私が「ほお!!面白いな!ふむふむ」とまず立ち読みして(池袋ジュンク堂では椅子がすごくいっぱいあって座り読みもできる)お買い上げするのは広義的なものを提示したものより具体的なものを哲学してるものが多い。

歴史に直結しているものだとなお接しやすい。

私はホロコーストものの小説、体験記が好きなのでその体験記が4階に分類されてるものが多かったのが哲学書を講義ではなく自力で読めるようになったのがキッカケかもしれない。

取り敢えず読み途中のも含めて私が読んで面白かった哲学書を数冊あげてみる。

ロバート・イーグルストン「ホロコーストポストモダン 歴史・哲学・文学はどう応答したか」

これはもうタイトルからしてすぐ食いついた。

具体的記述があって面白いし何よりも難しい言葉が使われていない。

だからといって語られている内容が簡単というわけではない。

大体私が哲学書を挫折する1番の要因は簡単なことを回りくどく無闇に難しい言葉で語るところなのだ。

ホロコーストものはナチ側へのインタビュー、収容所の体験記、戦争小説など結構読んでいたのでこの本に出てくる著者名や書物にも「確かにこれはそう言ってたな」と理解しやすかったこともあるし、なによりホロコーストが後の社会にどう捉えられているのかを知ることはとても新鮮であった。

メニングハウス「吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史」

これは帯に惹かれた。

「古典主義美学における「吐き気」と「美」のあいだの交錯関係、カントによる「吐き気」の理論的・実践的位置づけ、初期ロマン主義における「腐敗」の詩学ボードレール、ローゼンクランツ、ニーチェフロイトカフカバタイユサルトルクリステヴァまで“反美学”の系譜を明らかにする。」とある。

ここにある名だたる者の文書、小説、手記の一部を取り上げそれに対する考察がなされてる。

中身はとても魅力的だ。

しかし私はレジに持って行くまで1時間は悩んだ。

何故なら税込みで9,369円だったからだ。

分厚いし、私の感覚で哲学書は大体海外文学の値段の2,000円から3,000円増しとはいえこれは高い。

図書館という手もあるがこういう本は何度も読み込みたいので返却期間がある図書館よりは手元に置いておきたい系だ。

と決心し、泣きながらレジに持っていった。

泣いてるけど後悔はしていない。

していないけど誰か抱きしめてほしい。

最後にこれは嬉しい文庫本。

ミシェル・フーコー「ピエール・リヴィエール 殺人・狂気 エクリチュール

フーコーの哲学書は難しいのももちろんあるが比較的読みやすい書物もいくつかある。

読みやすいものを相方に教えてもらいつつ読んだこともあるけどこれは1人で読めるフーコー

精神学が入っているからというのと実際にあった殺人者の手記を元にしたフーコーの考察ということでとっつきやすい。

私はカポーティはほぼ読んでいるので「冷血」を思い出した。

とまあこんな具合である。

ハンナ・アーレントイェルサレムのアイヒマン」とドゥルーズガタリカフカ マイナー文学のために」と著者は同じくの「アンチオイディプス 資本主義と分裂症」は積ん読になっている。

どれもタイトルからして魅力的だ。

ホロコースト関係の書物や映画は結構チェックしてると言いながらアーレントのこれが未読なのは耳の痛いところだなあ。

カフカカフカ自身の文学を読んでればいいやってなとこもあるけど哲学者として有名なこの2人がどう捉えたのかというのが興味をそそられた。

まあ哲学書の良いところはちょびちょび読みが出来るところである。

小説のように一気に読まなくてもいい。

あと先に述べたように哲学書の意味のない、というか私に理解出来ない難しい言い回しは苦手なので哲学書は必ず立ち読みして中身を確認してから買うようにしている。

海外古典文学は大体ネットでポチってしまうが。

哲学書って高いしね。

ニーチェとかは普通にかっこいいなあとかは思うけど有名な「ツァラトゥストラ」より「この人を見よ」の方が面白かったなー。

ちなみに写真は多分持ってる小説の中で1番分厚い(しかも大きい)ロベルト・ボラーニョ「2666」とメニングハウス「吐き気」を並べてみたの図。

どちらも分厚いのでメニングハウスがそんなに分厚くなく見えるけどボラーニョがでかいだけです。

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弾く、書く。

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ピアノを弾いていて「最高にハイってやつだああ!」ってことはままある。

集中することはそう難しくない。

私はピアノは1日4時間以上は基本的にしないからだ。

その代わりに4時間はきっちり集中する。

だが「何かが降臨する」というのは毎日体験できるものではない。

身体全体と心と音楽とプラスアルファ「何か」の歯車が全部上手くハマるとそれが起こる。

弾いていてまず気分が高揚する。

自分が奏でる音に自分を沈みこませる。

視点が変わってくる。

自分の頭の上あたりにカメラがあって自分がピアノを弾いているさまが見える。

意志は空中にある。

その空中の意志が音楽を聴いている。

そのグルーヴ感の中にいる。

弾き終わって「は!」と視点が元に戻りかなり息はあがっている。

しかし変な力は入っていなかったらしく腕は痛くない。

んーと、例えるならプールに入った後みたいな心地の良さだ。

そういう時自分がどんな演奏をしたのか自分では分からない。

が、レッスンの時や試験の時に起こることが多く先生は「とても良かった!」と言ってくれるのでいつもより良い演奏は出来たのだろう、と思う。

これが「最高にハイってやつだああ!」現象。

面白いね。

因みに小説を書く時、断片的イメージがちょっとカタチを帯びてきて、溢れそうになった時点でとりあえずバーっと書きだしてみて、原稿用紙5枚位書き出したら明らかに間違えていたり重複している言葉や接続詞の間違えだけ書き直し、それを眺めて続きを書く、という作業を行う。

細かい推敲は物語の終わりまで「とりあえず書いてから」という大雑把なものになる。

ただ小説を書いている時はピアノの時みたいに視点が動いたことはない。

自分のカメラは自分の中にある。

或いは文字の中にある。

文字は空気を震わせないからかもしれない。

震わせるのは自分の中だからかもしれない。

書く方は9月末が締め切りなので頑張っています。

えへ。

因みに愛犬の写真はいつも楽譜と共にあります。

この「伸び」をしてる写真は「まあ楽しく弾きな!」って言ってるみたいでお気に入り。

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