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白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

出遅れました。

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なんとこのブログ去年の8月で止まってる模様。

その間に読んだ本も観た映画も書き留めることをせずにいたんですけど振り返ると後悔しました。

文章にして残すって大事なんですね。

なのでなるべく今年は頑張ってみようかと。

執筆の方が優先なのでこちらはその次になってしまいますが。

日本翻訳大賞、ギリギリまで色々読んでみようとリチャード・パワーズオルフェオ」に手を出したらこれが面白い。推薦時期的にもこの本を読んだ後に決めなきゃダメかな。

一応推しは決めてあります。

予想ではやっぱり2作も出てるソローキンが強いんじゃないですかね。

うちのこ、ニナミカ風になりました。

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ピアノとは愛である。

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私が産まれた時に1番に駆けつけて色々お世話してくれたのが牧師さんだった。父親ではなく笑

物心つかない時からプロテスタント教会には連れて行ってもらっておぼろげに覚えているのはステンドグラスから陽光が射しこみそこには昔からの埃が舞い、木の椅子の匂い、そして何より賛美歌とオルガンが無条件に美しいと思った。

教義なんか全然分からないけど好きな牧師さんの朗読はただ静粛に美しく彼の声はお腹に響いた。

それが私の最初の音楽体験だ。

私が通ったところは癌患者が多かったようだ。

本も充実していた。

そしてなによりも牧師さん本人が癌だった。

私は無条件に牧師さんに頭を撫でられるのが好きだった。

多分それがきっかけだ。

私も音楽をやりたいと思ったのは。

5歳でピアノのレッスンに通いたい旨を母に告げ、通わせてもらった。

そのころ珍しく週一で1時間レッスン。

今でいう聴音という音当てクイズまで手を回してくれたのは後々高校ピアノ科に入って何もしなくてもAクラス上位に常に居れたので感謝している。

教会のバザーでクリスマスソングの赤い楽譜を買ってもらったのはとても嬉しかった。

こんな宝物を買ってもらえるなんて!と目をキラキラさせてたらしい。

今もとってある。

私がバッハインベンションに辿り着いた時からバッハにハマったのは多分この影響だ。

バッハは唯一無二でありプロで何回弾いてても「まだ知らないとこがあった!」と評されることが多い作曲家である。

何度読んでも面白いと耐えうる小説に似ている。

読むたびに新しい発見があるのだ。

心がすり減っている時に弾くバッハは格別だ。

白い繭の中に守られて私は歌っているのだ。

さて、技術についてはどうだろう?

私の目指してる方針としてはということなのだが「心があれば上手い下手は関係ない」という考えは私にはない。

技術は楽譜を読み込めば着実に根付くものだ。

繰り返し繰り返しその都度楽譜に意味を見出すのは愛だと思っている。

そして「技術が終着点」というのも全然惹かれない。

技術を身につけることは前提にあり、そこからどう自分の様々な体験や他の芸術から自分の方向に向かい(或いは既存の自分を壊す)あうかが面白いところなのだ。

私がピアノ以外の芸術もピアノを弾く上で繋がってると言うのはそういうことだ。

どちらも「ずっとピアノを好きでいられるか、そして新しく理解したいと向かい合っているのか」がポイントだ。

それは時間と継続という忍耐力が試される。

そしてチープに聞こえるかもしれないが「愛」だ。

ピアノは弾けないけど愛があるので色んなコンサートに行くし、音源も持っている、という愛は最高だと思う。

弾ける側には耳の痛い人も数多くいるのではないだろうか?

私も物心ギリギリの時に無条件に賛美歌を美しいと思った。

あのこの世ではないような目を見開く感動は私の柔らかい部分にちゃんとしまってある。

その幼い私はそれを完璧に理解していたと言ってもいい。

鳥肌が立ち全身全霊で全てを聴き逃すまいとしたのだから。

前も書いたけど楽語には同じ言葉でも多数の意味がある。

そしてそれはしばしば文学的だ。

映像的と言ってもいい。

もし表現に苦労しているのならばやっぱりピアノ以外、小説でも映画でも触れて「そこから自分は何を感じたか」を自身に問い直すといいとアドバイスする。

あなたの「よりかかる」とはどんなものですか?と。

しかしこれはすぐに体感的に身につくものではない。

時間をかけるからこそある日急にわかることがあるし、それは本当に強いものだ。

技術の場合はリズム練習や変な力が変なところに入ってないか身体全体をよく見ることがアドバイス出来るものだと思っている。

もしかしたらヨガを教えるのと似ているのかもしれない。

身体は精神に繋がっている。

そして音楽の真実について辿り着きたいなら私が今再読している村上春樹1Q84」の言葉を借りたい。

「真実にはたいてい強い痛みを伴うものだ」と。

ただ苦労しろ、と言っているのではない。

愛があるなら、そして真実に触れたいなら強い痛みをも呑み込みなさい、そこからひらかれる世界を奏でたいのならば。

そして同時に音楽はあなた個人にあってどこまでも味方であることを信じなさい。

それが私個人の考えである。

「アクト・オブ・キリング」から「ルック・オブ・サイレンス」へあなたはなぜ兄を殺したのですか?

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前作「アクト・オブ・キリング」と対をなすと言っていいジョシュア・オッペンハイマー監督のドキュメンタリー「ルック・オブ・サイレンス」を観に行ってきた。

1965年にインドネシア各地で100万とも200万とも言われる「共産主義者」と呼ばれる(関係ない者も多数、そして前のインドネシア共産党は単に合法政党だった)者が「残酷な手段」で殺された。

殺した方は英雄とされているのでその時の殺害の様子を再現してもらったのが前作「アクト・オブ・キリング」となる。

共産党関係者の家族は公務員、軍人、教師の職業にはつけず(子供たちにそういう教育をしている学校のシーンは恐ろしい)財力も持たない遺族らは逃げる先もなくそれまでのコミュニティーの中で加害者とともに生活していく日々を送っている。

今作は前作「アクト〜」の編集前段階のオッペンハイマー監督に主人公となるアディが「兄を殺した加害者たちに直接会って罪を認めてもらいたい」という提案で制作された。

監督自身が「どちらの映画も1965年の出来事、それ自体についての歴史的ドキュメンタリーにはしないことに決めた。どちらもこの虐殺の現在を探求するものにしようと」と述べている通り、今回の映画もアディが産まれる前に兄を殺され、その行為を「自慢」という体系的なもので包んでる加害者に被害者遺族としての率直な疑問を加害者たちに直接問いかけるという映画になっている点が秀逸である。

アディのこの行動自体大変危険なものであることは言うまでもない。

アディの母は殺された息子ラムリのことの記憶にずっと苦しめられている。

母親はアディに注意はするものの積極的には止めようとはしなかった。

アディの長年の苦しみを包容しているようだ。

ラムリと一緒だったものの逃げて生き延びた者はアディを心配し加害者に会いにいくことを止めていた。

当時司令官や現在地方議長などの権力者は「上からの国際的な命令だった、私に罪はない」とアイヒマンを彷彿とさせるようなセリフをアディに言う。

「こんなことをやっているとまた同じようなことが起こるぞ」や「お前はどこの村に住んでいるか?」などと脅しをかけてくる。

ラムリの殺害に関わった地位が高くないものは多分本音では信じてはいないであろう共産主義者悪を自分を守る盾にするがごとく当たり前だったと語る。

最初は自慢気に「私は女の胸を切り裂いたことがあるから分かるが胸の中は穴だらけの脂肪なんだ」と語りアディが「殺す時には一撃ですか?」と問いかけると「一撃だ、無惨にする意味はない」と答えそれに対し「でもあなたは胸を切り裂いた、何故ですか?胸と首元、これでも二カ所だ」と問いかけると「それがなんだっていうんだ!」と激昂する。

他の虐殺行為を行った者。

その娘と同席して「父を誇りに思った」と語るがアディが被害者家族だと知ると涙を流し「父を許して、父はもう認知症なの」と防衛に走る。

娘ということで許しを求めるところが当人ではなく加害者の娘といったところか。

そこで言うアディの言葉には感嘆せざる得ない。

「あなたは娘だ。あなた自身に罪はない。罪を感じなくていい」と。

アディは罪を犯した人にその自覚と反省をもってもらいたいだけなのだ。

しかしその答えに救いをみた娘の返答が私はとても残念だった。

「もう終わったことよ、ありがとう、これからは私たちを家族と思って」。

このことに後ろめたさを心の奥では感じている者のパターンで共通するのが「過去を蒸し返してどうする、終わったことだ、同じところにすんでるのにお前は分断させようとしている」という反論だ。

加害者の自己防衛反応はとても嘘偽りに満ちている。

自分を守るために自分を守ろうと必死だ。

それは映画の画面、彼らの表情の何ともいえなさからよく伝わってくる。

そして当時の殺害者が「病気なのに」というような免罪符的なものも振りかざす。

それと対照的で印象的だったのがそれらの人々に接するアディの態度と表情だ。

彼はただ真実についての彼らの本当に気持ちを聞きたいしそれに気づいて欲しいのだ。

だから被害者家族にも関わらす、母の苦悩や自分の苦しさにも関わらず彼らを追及する時にも思考的だ。

これは加害者、被害者家族アディの対比が画面の表情にとてもよく現れていた。

しかしアディの苦悩も表情だけでとてもよく分かる。

涙を流しはしないがそれだけに痛切なものであると言ってよいと思う。

アディはこの行動の後もここに暮らしていかねばならない立場だ。

外人のようにインタビューして終わり、ではない。

それだけに加害者の自慢話や言い訳、狼狽や激昂も説得ではなく全部を聞き取ろうとしている。

何一つ残さずに。

そしてそのやり取りの間がフィクションのように美しいタイミングではなく居心地の悪い間だ。

人は何か部が悪いことを突きつけられた時にとっさの言い訳は出てこないものだ。

言い訳というよりこれは殺害であったので、その罪から自分を守る為の鉄の鎧だ。

それを急いでまとわなくてはいけないのだ。

まったく普通の人たちだ。

これは「アクト〜」でもよく現れていた。

上が壊れた時に虐殺に手をそめるのは全く普通の人々だったりするのだ。

「何が目的か分からない。赦したいんだ」

アディは言う。

しかし鎧をまとった者たちはそれさえもアディにさせてはくれない。

人間とはこういう時にこういう表情をするのか、と思いながら観た映画でした。

写真はこわく撮れちゃったにゃんこ。

ちなみにこの週は私は「マッドマックス 怒りのデスロード」というこちらとは真逆の映画も観に行ったのでありました。

現代に息づく神話や民俗学や生と死。

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上のPhoto Hideki Hiruta

被写体 私

下は写メ

日本は八百万の神という。

古事記はとっても面白い。

昔はあちらの世界とこちらの世界の分かれ目はなく同じ様に当たり前に存在していた。

その関係で小松和彦の著書も数冊読んだがこれがまた面白い。

特に「異人論」「悪霊論」は異人=妖怪=神とは?を主軸に事例を挙げるだけじゃなく彼の鋭い考察が日本文化の闇をくっきりと浮かび上がらせている。

ここでいう闇とは隠れているものということであり善悪ではない。

これを読むと無意識にも日本人の精神に通奏低音のように、足下を流れる地下深い水の轟音が聞こえてくる。

私が神話で好きなものにダンセイニの著書があげられる。

神話というのは不思議だ。

一見突拍子もなく思えるかもしれないのに読んでいる時には「実際に私が直面しているように」自分のための神話として入ってくる。

まあだから時の洗礼に負けずに残るのであろう。

ダンセイニはラヴクラフトに影響を与えたらしい。

昨今ブームなクトゥルフ神話

ラヴクラフトはダンセイニの後に手を出し、まだ全部は揃えてないけどこの奇妙さ、想像の広がり、ブームになるのはとても良く分かる。

ラヴクラフト関係を漁っていたら黒史郎「未完少女ラヴクラフト」なる本を見つけて表紙に笑い、面白そうなので購入してみた。

これはまだ未読。

ちなみにラヴクラフト全集1と並べて写メってみました。

クトゥルフ神話の広がりは本当にすごいと思う。

海外では分からないがとりあえず日本ではすごい。

同人誌にも進出するし、読んでないがどうやらラノベにも盛り込んであるようだ。

エンタメとしても素直に楽しんでるのがまた現代と直結しているという「強さ」を感じる。

深くも読めるし単純に楽しくも読める。

そして書きたく、描きたくなる。

そこで引き合いに出したいのがジョーゼフ・キャンベルだ。

私は彼を知らなくて最近村上春樹がジョーゼフ・キャンベル「生きるよすがとしての神話」にはとても助けられた良書、と言っていたのを読みチェックしたのだが残念ながら「生きるよすがとしての神話」は絶版なのかAmazonで12,000円に跳ね上がっていた。

いちまんにせんえんかよ!!!

という訳でジョーゼフ・キャンベルをビル・モイヤーズがインタビューしていくような形の「神話の力」を購入して読んでいる。

彼はかなりの博識だ。

そして神話と現代の繋がりと断絶についてとても深い考察を持っている。

神話を通し真実を知ることが出来るのか?

喪失、死、生誕、喪失、死。

多々の世界の神話や宗教に触れつつ現代の在り方やその中に生きる私とは何か、というのは物語を使った哲学だ。

しかし多くの哲学(といっても実はそんなに理論だった哲学はよんでなかったです)のように理屈だてて組み上げていくのではなく、そこは神話によって生きる、つまりは物語によって生きるということが主軸なのでどんどん話は広がるし行き詰まりもない。

今度村上春樹の読書会の課題図書は「1Q84」なのだがこれは良いタイミングにジョーゼフ・キャンベルに出会えた。

あちらとこちら、そしていきなり飛ぶ繋がりのない世界との接点は、以前は村上春樹は夢に例えていたが神話に近いと思っているのではないだろうか。

実際夢といえば心理学に属するものになってきそうだがそれだけでは読みきれない広がり彼の作品には感じるのだ。

安直なメタファーの死である。

というかそれは彼の物語を殺してしまう、そこで終わり、というものになってしまう。

私は周りに蠢いている不思議であり不思議でない言葉にしたら物語に変換し、それをまた言葉にしたら物語に回帰するあやふやなものを触れて確かめたいのだ。

あ、雨月物語でも再読か原文では読めないので他の人の現代語訳の本買って読もうかな!

ピアノと他の芸術性。

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Photo 関健一

被写体 私

ピアノを弾く者としてピアノにまつわるお話をしたいと思います。

個人的体験から得たものなので誰かの為になるものではありませんが。

初心者向けというよりは中級者が上級を目指す方向性かも。

ひと昔は「腱鞘炎を経験して一人前」なんて言われてきましたが今はプロは「どうやって腱鞘炎にならないような練習をするか」が大事です。

これはスポーツ選手でもそうですね。

短時間でどういう練習方法をすればいいか。

それは人それぞれ苦手な部分が違うので一般化は出来ません。

教える側になる場合はその人によってアドバイスを変えなくちゃいけないし。

私の場合は左手のとあるアルペジオを速く長く続けると手の甲が痛くなってきて腱鞘炎の気配が出ます。

飛躍するのは全然平気なのですけどね。

まず基本はリズムを変えての練習。

そこで手の甲で力を止めずに肩まで力を分散させるよう心がけます。

あと左手のみ指の戻りが遅いので力を抜いて左手を鍵盤に起き、右手で上から指を押して自然に戻る練習。

これはグールドが師事していた先生からの教わり方だそうですが効果あります。

グールドから学んだ1番大きな事は弾きながら歌うことかもしれません。

CDをよく聴けば分かるようにグールドは意外な内声部を歌ってます。

これは特にバッハを理解する上でとても面白い。

私も、まずショパンではないですが、バッハはリスト編、ブゾーニ編含め歌いながら弾きます。

単純に楽しいだけでなく、歌えない箇所はその多旋律のどこが魅力的か分かってないで弾いてるところと分かります。

聴き逃しそうなところに美味しい音が隠れているのがバッハの特徴でもあります。

分かる、と言いましたが「私はここが下降線になってるからここが魅力的だと思うのでこう弾きたい!」と言った方が適切かもしれません。

これは小説で言えば「ここの文体に注目すると前後の文体の魅力が分かってくる」と同じと考えて下さい。

ここで小説を持ってきましたので小説や映画に触れることが私の実際の音楽生活にどれだけの効果をもたらしてきたかを触れてみます。

最近は哲学も加わりました。

楽語に関わらず楽譜に表記されているものは文学的なものも多いですね。

単純ではありますがそれだけにどう捉えるのかという難しさもありますし、火をふくように!と言われてもどう火を吹くのか文学ならジャック・ロンドン風の火なのか映画なら「シン・レッド・ライン」の冒頭に出てくる自分の内面を深く掘り下げる目の前の蝋燭の炎が揺れる火なのか。

そもそも私が小説や映画やまあその他諸々の芸術に触れるのは「何のため」ではなくてまあ「自分が楽しいから」の一点につきます。

「吐き気について」の哲学書を読んでるのも吐き気の美醜に単純に興味があるからです。

神話も民俗学も同じく。

いや、それらは全部繋がってるんですよ。

だからどれに手を出したって全然おかしくないわけです。

「音楽の表現力を高めたいので小説を読もう」という動機になると他の人はいざ知れずですが私は無理です。

でも「技術だけは上手くいくんだけど表現力はちょっと理解出来なくてどうしよう」って聞かれると一応アドバイスとして「今やってる方向性に行き詰まってるなら他のものに興味を持ってみたらどうか。音楽は文学と全く違うものではないから」とは言います。

ただし、これはすぐに効果が表れるものではないです。

小説を体に染み込ませるのは大体時間がかかるものですし演奏に繋げるとなると尚更。

もちろんこれは小説じゃなくても写真でも映画でもオーケーです。

私は小さい頃から読書が好きだったので小説に対する体感は早くに身につけました。

美味しい表現を美味しいと感じ、怖い表現を怖いと身震いする。

やり切れない思いに涙を堪えるのは「緊張感を保ち繊細に」という音楽用語に回帰します。

言ってしまえば楽譜を検分する時に楽譜が何を言いたいのかを耳を済ませて読み取り、それを私が小説やその他芸術から培った経験、それから感じた自分なりの解釈をピアノに照らし合わせるわけです。

自分の体験も良いでしょう。

しかし私は想像力を信じる非経験主義者なので体験よりは小説の中から自分で汲み取ったものの幅広さを信じます。

因みに「私は傷ついたことがあるからあなたの傷ついた気持ちがわかる」というような戯言は一切信じません。

ここまで他の芸術とピアノを比べてみて気がつかれたことがあると思います。

そう、ピアノが弾ける人が必ずしもピアノの美しさを理解している訳ではない、むしろ理解しているのは熱心にピアノ曲を集めて聴く人ではないか!ということです。

実際にコレクションとしてはともかく、本当にピアノ曲が好きでCDをピアノを弾く人より大量に持っている人はかなりいます。

音楽は知識以前に皆に平等に開かれているものだからです。

逆に言えば本来ならピアノに関わる人はある程度は色んなピアニストを聴くべきなのですが現状、技術に溺れてびっくりする位にピアニストを知らない、或いはYouTubeですませてしまう人の多いこと。

因みに私の傾向をここで示しておくために好きなピアニスト10人を挙げてみたいと思います。

グールド、ミケランジェリ、フランチェスコ・トリスターノ、リヒテル、アンデルジェフスキー、バックハウスポリーニ、カツァリス、ポール・ルイスグルダ

これで10名か。

まだあるんですがキリがないので。

まあこの10名もこれを弾かせたら一級!というものを持っているのも私が好きな作曲家を弾いているかどうかも関わってます。

さて、ピアノの技術の方に話を戻します。

一曲で10分を超える曲を弾きこなす場合最後まで聴かせることが重要になってきます。

例えば32小節ある中で統一感を持たせつつどこで山場をつくり緩急をつけるか、或いは敢えて平坦にすることで緊張感を持たせるのか。

とにかく次の切り替えまでが32小節あるとしてそれを一括りにしないといけません。

ミクロな見方は絶対ダメです。

全体的に何を発したいのか分からなくなります。

これも小説に例えてみると、細かい描写に頼りすぎて大きな文章の流れを失わせること、となります。

最初はみんなミクロな練習から始めます。

そしてだんだん感覚が掴め、ペダルの方向性も「これが美しい」と決め、マクロになっていき、最終的には10分以上で一つとなるわけです。

因みに何楽章か分かれてる場合、ベートーヴェンとかの場合は全楽章通じるものは勿論あるのですが楽章ごと一呼吸入れて良いと思います。

小説の第一部終了、と同じことですね。

ちょっと視点を変えてみましょう。

例えばピアノ曲は聴くのは好きだけどもうちょっと魅力を知りたいな、と思う人を引きずり込む(笑)方法。

勿論ピアニストによって違う演奏は色々聴いてるかと思います。

その中でも有名どころではグールドのゴルドベルク55年版と晩年版の聴き比べは同じピアニストが「あの解釈は今は違う」という気持ちが大きいのでとても面白いですよね。

そのピアノ曲が好きな人に例えば一つ楽曲を聴かせましょう。

部分部分に区切りましょう。

そして「ここはこの隠れ音を意識した奏法」と「敢えて隠した奏法」や「ここは開けた草原の様な奏法」と「内にこもった奏法」など交互に聴かせるのがとても面白いと思います。

さらに「どっちが好きだった?」と尋ねると聴く方も答えを膨らませるかもしれません。

答えは難しくてもオッケーだし単純でもオッケーです。

これは私の師事している先生が部分でやってくれることです。

イメージが湧かない時、いくつかのパターンを先生が提示して弾いてくれます。

そこで私が好きなものを選ばせてくれます。

そして最初直感で選んだものを信じて、次に繋がるように持ち帰ってから「じゃあ私は何故これが好きなんだろう」と考えます。

私は感覚的な人間なのでその答えも感覚的です。

あるいは小説的。

でもそれで良い、というかそれが良いのです。

頭からつま先までストンと馴染み、好きに回帰していけば「何故ならこれは美しいからだ」で説得力はあります。

ピアノは体力を使うものです。

身体全体、足も使います。

私の場合は喉も。

曲が仕上がった時は脳はトランス状態で身体が音楽を奏でている、くらいの方が良いと思います。

うーん、ピアノって面白いですね。

小澤征爾。

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Photo 関健一

被写体 私

さて、昔から私の大好きな指揮者、小澤征爾ケネディ・センター名誉賞を受賞しましたね。

なんでも日本人初ということで私はこの賞の存在を知らなかったのですがボストン29年間がこうカタチに認められるのは嬉しいことです。

蛇足かもしれませんが一言先に言っておくと私はこういう時によく言われる「同じ日本人として誇りに思う」とかいう言い方にはかなり違和感を覚えます、まあ理由はともかく蛇足ですね。

小澤征爾は後継者を育てたいという気持ちも強い方だし、一般人にも聴いてもらいたくお寺で無料でやったりと、マエストロなのに本当に音楽を純粋に愛してるんだなあというのが分かります。

私が小澤征爾関係で読み込んだのは村上春樹との対談(これはもうボロボロです)小澤征爾「ぼくの音楽武者修業」。

特に熱烈な村上春樹ファンな私は大好きな小澤征爾にインタビューということで本当に嬉しかったですね。

これをテキストに読書会をひらいたこともあります。

少しでも元々敷居の高い(本当は高そうに見えちゃうだけ)クラシックを広められたらとこの時は幹事をクラシック好きな方何人かとクラシック講義みたいなものもやりつつ進めました。

これはまたいつかやりたい。

私が初めて小澤征爾の演奏に竜巻のような恋に落ちたのは高校生の時でした。

音高だったんですがピアノ科だったので色んなピアニストは聴いてたんですが指揮者は音楽勉強する身としては疎い方でまあお恥ずかしい限り。

その頃私はメディア室で何気に小澤征爾ブラームス交響曲1番のLDを聴いてみたんです。

オケはサイトウキネンだったのかなあ?忘れてしまいました。

それまでブラームス交響曲1番はまあ普通に好きでした。

好きな人多い曲ですしね。

だけどこの演奏はもう別格でした。

一目惚れといいましょうか、もう純粋に心が激しく揺さぶられ、この曲の一音も逃さない!と一目惚れの恋に落ちた少女のように全てに耳を澄まし、LDで映像だったので小澤征爾の手を射るように見ました。

そして(多くの音楽がもたらすように)とても幸福な気持ち。

それはもう本当に何回も何回も見ました。

レコードだったら擦り切れてダメになっている位。

そこからです、私が色々な指揮者のCDを当時少ないお金で買うようになったのは。

というわけで私にとって小澤征爾とはオーケストラの指揮者の初恋なのです。

良い音楽に国境はありません、良い小説や芸術に国境がないように。

私は彼が日本人で認められてるから好きなのではなくて恋をしたのがたまたま日本人だっただけの話。

何故小澤征爾の指揮にそんなに惹かれるのか。

これは稚拙ながら今は少し言葉に出来そうです。

まず自分を過度に押し出さずスコアをよく検分し作曲者に寄り添う。

その上で自分の感じた確固たる感情をオケから引き出す。全身全霊をもって。

数ヶ月前の音楽雑誌「音楽の友」の表紙が小澤征爾でインタビューも載ってたので立ち読みしました。(立ち読みで申し訳ない)

そこで小澤さんはこんなことをおっしゃていました。

「日本人の楽譜に忠実にというやり方は決して間違っていない。しかしその上でそれを超える何かも絶対に必要だ」

これはピアノを弾いている私にもガツンときましたね。

そしてサイトウメソッドでもこういう学び方だったのでしょうか?

クラシックは西洋のものだ、我々東洋人には彼らのようにはなれないかもしれない、何者にもなれないかもしれないということは何者にもなれるかもしれないということだ。

これは小澤さんが斎藤先生から教わったことだと記憶しています。

そして小澤征爾はその「何者にもなれた」存在なのではないかと。

少なくとも私には何度も言いますが彼の振る音楽に恋をしています。

色々言葉にしてみましたがこれが1番伝わりそう、うん。

そう「私は彼の振る音楽にどうしようもなく恋をしている」のだ。

あの高校生の時からずっと。

それはもう無条件なものだったんだ。

私の心は私にはコントロール出来なかった。

そして良い音楽というものは多分そういうものなのだ。

賞は二次的なものだ。

だけど自分の好きな人が世間に認められるとやっぱり嬉しい。

えへへー!やっぱりいいでしょ?やっぱり素敵でしょ?私もね、すごく大好きなんだよ、えへへー。

ってね。

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淵の王。

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舞城王太郎の作品はかけなしに好きなものと作者の主張が全面に出てきてあまり、な作品に分かれるのだが新作「淵の王」はかけなしに面白かった。

メタ視点が素晴らしいと言われているが私はメタ視点は今や珍しいものでもないのでそこを評価しているのではない。

メタ視点の上のメタ視点で言えばゲームになるが竜騎士07うみねこのなく頃に」が技術的に使っているのではなく、面白くするために使っているので私の中ではかなりの高評価だ。

メベルゲーの中では「ひぐらしのなく頃に」を超えたかもしれない。

さて、舞城王太郎「淵の王」の面白さは怖い話が怖い物語を呼ぶということを、ホラーにしてしまわず内面的に昇華し一気に全編面白く読ませてしまうところだ。

実際私はこれを読んだ後1日で漫画を11冊買ってしまった。

漫画家の女性が魅力的だったからだが、こう読んで現実的な行動を起こさせてしまう小説は難しい言葉よりもなによりも説得力がある。

そして舞城王太郎には絵にするとどうなんだろう?という描写がよくある。

ということで大暮維人舞城王太郎の漫画「バイオーグ・トリニティ」はデッサンともに素晴らしい。

こんな発想があるなんて!と感激してしまう。

私がラノベを殆ど読まないのは設定で勝負しているからだ。

設定で勝負するなら断然漫画の方が面白いと思ってる。

とはいえ西尾維新には手を出しているのだが。

上の写真

Photo のの

被写体 私

下の写メは「淵の王」が好きすぎて新潮のとハードカバー両方購入してしまったものです。

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