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白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

クラシック音楽のリズム感。

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最近ピアニストでも内なるぐるぐるするリズム感があるピアニストに改めて感銘を受けていると同時にそのリズムを自分の練習で意識して行ってる。

グルダ、グールド、トリスターノの魅力はまさにそれがある。

それはミニマルミュージックが隠れた流れのリズムを全体的な流れの中で乗ってくるという楽しみだ。

グールドはともかく、昔はあまり見受けられない演奏だが私の心は高揚する。

だから全体的譜読みをし、ここには隠れたグルーヴがどうやったら引き出せるのかよく意識して練習することを主題としている。

トリスターノはさすがクラブミュージックにも関わっているだけのことはあり、そのグルーヴ感は素晴らしい。

面白いのはそれが彼の自作曲は勿論、バッハに顕著に表れているところだ。

バッハは本当に唯一無二の作曲家だと思う。

グルーヴ感を出す練習は本当に難しい。

次の音にいく絶妙のタイミングと全体を見渡せる力が必要になる。

指が転けないようにリズム練習も必須だ。

例えばグールドのゴルドベルク変奏曲晩年録音なんかはだいぶゆっくりな演奏だけど曲のグルーヴは確実にある。

彼のグルーヴは面白いし、解釈も自由奔放で素晴らしい。

最近お気に入りなのはキーシンピアノアシュケナージオケのプロコフィエフピアノ協奏曲3だ。

生き生きとしていてそのグルーヴには無条件にワクワクさせてくれる。

私にとってピアノとは一体化した時に無条件の安らぎ、幸福、興奮を味あわせてくれるものだ。

小説を書くときと似ている。

最近ピアノののめり込み時間が多くて小説書きに時間と気力が割けないのが残念。

でもまああれもこれもとはいかないですよね。

私はピアノや小説書きで本当の自分を探し求めてるわけではない。

本当の自分なんてない。

どうでもいい。

柴田元幸さんはイベントトークで剥いても自分の核というものがない玉ねぎだと仰っていてこれは若い頃から頑なにそう思っていたそうで、本当の自分探しなんてアメリカじゃ何言ってんだという思想の方が私も大好きだ。

だから小説でも自分探しなんかより、自身の曖昧さやそれを受け入れてそれが当たり前だろう、自分探しなんて面白くないし予定調和的だと思ってしまう。

日本は自分探しに美的感覚を持ってる人が多いけど人間の不可思議さの方が感覚的にしっくりくるし、だから人間とは面白いと思える。

私はピアノと向かい合う時、ピアノは私を信じてくれるし、私はピアノとくっついてしまう一心同体を感じる。

クラシックに限らず、わたしの好きなクラブミュージック要素の高い音楽を聴く時もそうだが、指を動かし音楽を奏でることは時に自身の実力のなさに落ち込むけどそれ以上にあのピアノとの繋がりは美しい以外の何者でもない。

どんなタッチで弾けば私の求めてる最高の音色を出せるのか、ひたすら求める行為は素敵なことだ。

私は文学を読むのも好きだが、ピアノと向き合いかたは全然違う。

文学はこれはどういうことかを言語化していく作業もとある意味はあるんだろうけど、それは音楽を言語化するくらい大事なものが溢れたり精神分析的になるつまらなさも含んでる。

感性だけで、ただその人の率直な感じ方を聞くことの方が読書会では私は好きだ。

言葉をカテゴライズするととてもつまらなくなる恐れがあるからだ。

でも読書会の場合勿論どんな解釈をしてもいい訳だからそれは当たり前だが気にしないし、その人の捉え方も批判しない。

これはこういう意味、というのは河合隼雄を除いた精神分析者に当てはめてしまうつまらなさがある。

そう思うと文学寄りや人はわからないという前提の河合隼雄の本は読んでてとても気持ちいいと思っていて彼の著書はかなり持っている。