白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

どういう意図で何を表現したいのか。

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ピアノのレッスンで言われること。

「ここはどういう意図(またはイメージ)でこういう表現にしたの?」

1番ありがちで1番まずい回答は何も考えてなかった、ということにつきます。

イメージや意図を持っていてここはこうだから(この旋律が魅力的だから強調したかったとか)こうしたのだ、と答えられれば多少ズレていても、いや、ズレているなりに「ではこうじゃなくこうした方が効果的なのではないか?」という1人では気づけないアドバイスがもらえるからです。

音楽記号もそうです。

例えば音楽記号と違う演奏をする場合でも「作曲家が何を表現したくてここにこういう音楽記号を記したのか」を思考した上で違うことをやるのとただ自分の気分でやるのとは表現が明確に違ってきます。

手の力の入れ方、音節のとり方、一見聞いて分かる様な指導もされますし、「ここは地鳴りがするように、その後静けさがくる」とか「石を打つように」とか音楽を長年やられてない人には分からないかもしれない表現で指導される場合もあります。

後者の場合一見ハテナ?と思う方もいると思うのですが幼少の頃からピアノを習っているとそういう表現でもすんなり理解出来てしまうのです。

というか音楽ってそういうものだと思っていましたし、今もそういう風に思っています。

例えば私は昔の国内の作家では泉鏡花なんかが好きなのですが彼の文学にはそんなような表現は多数出てきますよね。

水を打った、とか日本語も確かありますよね?

今はカネッティ「眩暈」とその合間にカフカ「短編集(再読)」を読んでいるのですがキーン教授が沈黙を愛するように、とか、カフカの辿り着けない城の思考で、とか言われたら自分なりに色々弾いてみて試したりします。

そういう変換が得意でないとピアノで表現するのは難しいと思います。

ラフマニノフ前奏曲「鐘」も私は川端康成の「眠れる美女」の醸し出すような妖しい演奏が好きで、このピアニストはそういうのが出てていいなぁとか色々なCDを聴いてて想像します。

あとこれはとても重要なことなのですが、ピアノに関わらず何かを表現する人なのにその分野で他の演奏家や絵だったら画家、写真だったらフォトグラファーを知らないという人がびっくりする程多いのです。

私は短編小説も書きますが小説を書く人が色んな小説を読んでないということを知っているのでちょっとおいおい、と思います。

だって好きなんでしょう?

だったら勉強じゃなくて大前提として色々知りたいしそれは楽しいことでしょう?

小説に関しては特に海外文学が売れていないのは信じられないです。

良いものを探そうと思ったら日本国内のみで選出するより世界から選出する方がより良いものに触れられるはず。

スポーツだって国内大会より国際大会の方がレベルが高いはずです。

話が若干逸れてしまいました。

小澤征爾村上春樹の対談集」で後半に小澤征爾が教える学生弦楽四重奏だったと思うのですがそれが一週間で相手の音を聴き、音楽が格段に良くなったことに村上春樹は驚いていました。

私はピアノのレッスンを受けていて一回一時間の間に自分でも驚く程変わるということを知っているので、そりゃ小澤征爾が一週間教えたら格段に変わるよ、と思った覚えがあります。

それと私はピアノと小説という分野ですが、芸術は繋がっているので映画を観たり写真に触れたりするのも楽しくて接しているのが大前提なのですが「結果的に」ピアノにも小説にも還元されていきます。

沢山聴くこと、考えること、想像力を働かせ音に還元すること、これを補佐しているのはどの表現者のものを見て吸収することも大切だと思っています。