白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

ホロコーストもの書物から感じること。

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私は何故かホロコーストものに惹かれる。

ノンフィクションにこだわりがあるという人もいるが私はノンフィクション、フィクションを区別することをあまり重要なものだとは思わないので両方読む。

要は作者が原稿に真摯に向き合っている本が大切だからだ。

因みに写真はジョナサン・リテル「慈しみの女神たち」でフィクション。

ナチス側からのホロコーストものということで珍しいというのと少し立ち読みをして綿密な調べを詰めた上での物語だと確信し、上下巻で約1万円だったが買うに至った。

これは本当に買って良かった本の一つだ。

最近読んだホロコーストもので良かったのはルート・クリューガーの自伝「生きつづける ホロコーストの記憶を問う」である。

アウシュビッツ収容所での年齢での彼女は当時13歳。

少女ならではの視点が描かれているが彼女は鋭い。

ホロコーストを体験したのは確かだがそれは私の青春の中で生き延びたというものであり、「ホロコーストを体験したものたち」という括りにされるのを彼女は拒否している。

これは一緒にしてはいけないかもしれないが私個人はとある事件に遭ったことがあるのだが「事件に遭ったかわいそうな人」という括りを嫌がるのと似ていると共感を得た。

だいたいホロコーストに遭ったもの達は大抵外側から「ホロコーストに遭ったならこういう感情を抱いたに違いないでしょう」と言われるのを嫌がる者も多い。

それは全て「個人的な感情」を無視されているのと同じだからだ。

そして同じ体験をしたからと言って「分かるよ」と安易な同族意識もとても嫌がるし、逆に嫌がるということはそういうもので同族意識を強要してくる者が多いということだ。

これはヴェトナム戦争ものを読んでも言えるし、新しいのでまだ読んではいないが東日本大震災の被害者ももちろん一人一人の物語があるのだから一括されることに拒否感をもつ方も多いのではないか。

良いインタビュアーはそれを心得ている。

例えばスベトラーナ・アレクシエービッチ「チェルノブイリの祈り」を読んでも私達が勝手に想像しえる言葉とは全く異なっていて、一人一人の抱える「本当の」言葉はどうだったのかは意外な言葉を発するし、村上春樹アンダーグラウンド」で地下鉄サリンの被害者62人へのインタビューは62人の多様な人生の中で起きたこと、そして一見複雑で理論的で考えている故にオウムに入ったのではとよくクローズアップされるオウム側への村上春樹がインタビューした「約束された場所で」と対比すると、彼ら彼女らは確かに社会に疑問を持ち考えてはいるのだが深みで言ったら彼ら彼女らからすれば「平凡」という「アンダーグラウンド」62人のインタビューの人生のが圧倒的に面白いのである。

これは62人が生い立ちから話を聞けることがとても良かった。

遭ったことだけのクローズアップではない。

その人達はどういう人生を送ってきてたまたまこういうことに遭ってどう思ったのかが丁寧にインタビューされている。

ルート・クリューガーはまさにこの点を大切に描いている。

当時女性は男性より下だったのでその不満もたっぷり描かれている。

少女らしく生意気(それが魅力なのだが)な面。

収容所で生き延びるための全力の知恵。(ただし知恵を振り絞ったからといって生き延びることが出来る世界ではない)

母親への分かり合えない不満。

「生きつづける」とは収容所から解放されアメリカへ渡った時のことも描かれているのもとても面白い。

お友達にダビングしてもらったNHKBSで放送された「ヒトラー・チルドレン」という海外製作ドキュメンタリー番組も先日みた。

これはヒトラーの側近、ヘスやヒムラーなどの子供や孫がインタビューに応じる番組であった。

インタビューに応じた方はみんな血筋を受け継いでいるということに苦悩や恐怖を感じて生きていた。

私は子供や孫には罪はないと思っている。

何しろ本人ではないし、ヒムラーやヘスの親ではないのだから。

ただそれは外側からの意見でありそう言ってくれる人もいるとは彼女ら彼らはよく分かりながらもそう言う理屈とは別に苦しんでいるのだ。

1人はアウシュビッツ収容所にジャーナリストと共に行くということにした。

このジャーナリストはホロコースト被害者として経験した人物だ。

そしてどうしようもない苦しみが表情から伝わってくる。

彼はホロコーストで家族を失った子供たちとそこで対面した。

「あなたは恥ずかしいと思わないのですか?あなたのおじいさんに会えたらどうしますか?」と涙ながらにその少女は彼に質問する。

彼は答えた。

「私は恥ずかしいと思っています。祖父に会えたらこの手で殺してやりたいです。私はあなた達に会えたことを嬉しく思います。」

双方とても苦しそうだ。

胸が詰まる。

その中の1人、ホロコーストにいたユダヤ人の老人が「君は悪くない」と彼を抱きしめる。

彼は泣くまいと決めていたがもうダメだった。

そして拍手。

私は見ていてこれで彼は自殺をしないで済むかもしれない、と思った。

それまでの表情ではもしかして彼は自殺してしまうのではないかと危惧していたからだ。

そして最後にこれまた印象的な言葉を見る。

同行したジャーナリストの言葉だ。

要約するとこうだ。

「これは確かにハッピーエンドを迎えたかもしれません。

でもそれは本当に稀なことです。

誰しもホロコーストに何かしらのハッピーエンドを求めるのです。

でも現実はそうではありません。」

彼の表情はこの一種の和解に抵抗している感があった。

ホロコーストという地獄を体験したものは当たり前だがその者を糾弾する権利がある。

だが今はその者は処刑されいない。

では誰に怒りをぶつければいいのだろう。

怒りをぶつける相手がいないことほど苦しいものはない。

ジャーナリストはアウシュビッツを訪れた彼を理屈的には怒りをぶつける相手ではないとは分かっていたと思う。

でもどうしてもこの一種のハッピーエンドを目の前に、彼が救われたことに怒りを持っているように思われた。

これは本当に複雑な問題なのだ。

行き場所がない。

救いだって奇跡のような確率でしかない。

ランズマン監督の「不正義の果て」もとても複雑でそこにしか居なかったもののインタビューであった。

これは映画で観たのだが4時間弱という長さにも関わらず圧倒的な主張であったためあっという間だった。

もう一回観ておけば良かった。