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白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

読書会のある場所。

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私はたびたび読書会に参加するのだが1番好きなのは課題図書のある読書会だ。

1冊の本を読み込んできて読書会で分かち合う、知らないものを知る、感じるというのが1番私にとっては濃く楽しい。

同じ本を読んできてそれについて話す時、色んな角度から話す人と触れる。

私は以前「にゃおバスはもう少し理論的に話すことを学んだ方がいいよ」と言われたことがあるのだが、私は「文学」に向かい合った時に理論的に考え話すことを敢えて避けている。

私にとって、と思ってほしいのだが理論的に物語を「分析する」ことは私には他の大事な面白いものを見落としてしまう面が強いからだ。

文学は音、感情、構成、風景、読む人の過去と考え、それにうったえるものとストーリー、曖昧なものの総合芸術だ。

これは何々のメタファーだからここはこうだ、みたいな論法には私はあまり惹かれない。

むしろ、ここは分からなかったんだけど凄く惹かれるシーンで私の中ではリュートが鳴っていた、とか個人感情にうったえる感想にとても興味を覚えている。

勿論読書会では色々な読み方をしてきていい。

様々な読み方を自分と合わなくてもある程度お互い受け入れることは読書会では大切なことだ。

ただ「こうした方が良い」というのはそれはその人の価値観なのであってそれを私に押し付けられても(親切心なのかもしれないが)私には私の価値観があるので困ってしまうのは事実だ。

ちなみに私はもうこの歳なので自分がOKとしているものとそうは思えない線引きは現実社会と関わる上ではハッキリしている。

読書会の上で1番グッとくるのは「私はこういう体験をしたこととこのセリフ、またシーンは何故だか分からないけど共通点がある感覚があり凄く共鳴する。まるでもう一人の私が後ろから囁いているようだ」とかそういう理論的ではないもっと直感的な感想だ。

あと今後読書会の時でも話してみたいのは「音楽、または音について」だ。

例えば柴田元幸さんの朗読なんかを聞くとものすごい迫力に惹きこまれてしまう。

文学は音からも成り立っているからだ。

見えないものだから見過ごされがちだがカポーティなんかは全く無駄のない音(翻訳もだいぶ気を使うだろう)、文節、完成された文体によって削るところも増やすところもない本が多い。

長編は少しだれてきてしまうものだ、それはある程度致し方ない、と村上春樹は言っていたが、カポーティの長編「冷血」はその緩んだところが私には見受けられない。

「これは何々のメタファーだからここは重要なのだ」。

そういう見方もいいだろう。

ただ私にはメタファーはメタファーのままであることでそれを解析することにあまり興味を惹かれない。

解析し終わったあとなるほどという思いがもっと見えない神話みたいなものを潰してしまう非常にもったいないという、これは私の読み方だ。

読み方は自由、読書会で語り合う時理論的でもいいし文学的曖昧な感想でも勿論いい、どちらが優れてるというのはない。

押し付けさえしなければ自分の知りたいと思った感想をもっと聞いてみれば良いのだ。

ちなみに最近「これを課題図書として読書会やってみたいなあ」と思ったのはポール・オースター「闇の中の男」。

これは何回も読み直したい本の一つであった。