白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

音楽と物語。

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つい先日に柴田元幸編集文芸雑誌monkeyを購入した。

特集は「音楽の聞こえる話」

音楽と文学の関係は前々から考えていたのでこの特集は嬉しい。

先月は読書イベントで音と文学の関係について色んな人に話を訊いてみたばかりだった。

私は村上春樹が好きなのだが彼の著書には音楽が多彩に出てくる。

村上春樹の読書会」ではテキストに出てきた音楽が流れるし、小澤征爾と対談本もある。

個人的に1番クライマックスに音楽が使われた著書は「海辺のカフカ」のベートーヴェン「大公トリオ」だったのではないかと思ってる。

音楽に全く興味が無かった青年星野くんが音楽っていいな、と思い目に見えない「何か」を得たシーンはクラシックピアノを弾く身としてはこれほど嬉しいことはない。

因みに私が普段聴く音楽はクラシック、クラブミュージック、レディオヘッドビョーク辺りの音楽、ボカロ、という順番だ。

音と文学という括りもある。

最初は「文体」ということを感じていた。

例えばカポーティの文体は緻密で少しひんやりとしていて硬めで余計な部分がない。

何処を足しても引いてもダメでそれだけで完璧である。

ピンチョンの文体。

全てが一見無駄に見えて流暢に流れる。

裏ではベースがブンブンとなり続けている。

続けて続けて止むことがなく「鳴り続けていることに意味があるのさ!」とさえ言っているようである。

ドストエフスキーは受難曲のような文体。

一斉にみんなが叫ぶように歌いだし絡み合い時に陽気に、時に厳かに音が重なる。

アゴタ・クリストフの文体。

色々な余計なものは一切省いてそれ故に大事な音符が浮かび上がる。

休符が一体となった文体である。

まだまだ数えきれない位魅力的な文体を持つ作家は沢山いる。

そもそも文体に魅力がないと物語の仕掛けが面白くても読み続けるのは私は困難なのだ。

ところで私は詩が基本的には苦手である。

特に朗読されると苦手だなあと思うところは大きい。

ところが小説の朗読は大好きだ。

昔紙芝居が好きだったのと同じように。

私は柴田元幸が大好きなので彼のイベントにはちょこちょこ行っている。

大抵イベントでは朗読してくれる。

この前はジャック・ロンドンだったし1番近くに行ったイベントではサキだった。

柴田元幸の朗読がまた凄く魅力的だ。

物語に沈み込み物語を愛しているのがわかる朗読である。

翻訳家という職業はそういうものが必要不可欠だからかもしれない。

小説とは聞こえない音を聞こえる音にするものなのだ。

雨の音、暗闇の中に射し込む陽光に浮かぶ古い埃、夢に入る序曲に胸のあたりがぎゅっとする揺さぶり。

けたたましい目覚しのベルと死へ向かう不協和音。

すぐれた小説というものはそういうものがちゃんと聴こえるし流れだし沈黙さえも休符で現れる。

そしてそれは、例え絶望的な物語や音楽でも私に寄り添ってくれる。

私はピアノを弾く時に小説を感じるし、小説を読む時に音楽を感じる。

因みに写真は再読のトマス・ピンチョン「ヴァインランド」である。

私のヴァインランドは旧訳。

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