白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

ピアノと他の芸術性。

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Photo 関健一

被写体 私

ピアノを弾く者としてピアノにまつわるお話をしたいと思います。

個人的体験から得たものなので誰かの為になるものではありませんが。

初心者向けというよりは中級者が上級を目指す方向性かも。

ひと昔は「腱鞘炎を経験して一人前」なんて言われてきましたが今はプロは「どうやって腱鞘炎にならないような練習をするか」が大事です。

これはスポーツ選手でもそうですね。

短時間でどういう練習方法をすればいいか。

それは人それぞれ苦手な部分が違うので一般化は出来ません。

教える側になる場合はその人によってアドバイスを変えなくちゃいけないし。

私の場合は左手のとあるアルペジオを速く長く続けると手の甲が痛くなってきて腱鞘炎の気配が出ます。

飛躍するのは全然平気なのですけどね。

まず基本はリズムを変えての練習。

そこで手の甲で力を止めずに肩まで力を分散させるよう心がけます。

あと左手のみ指の戻りが遅いので力を抜いて左手を鍵盤に起き、右手で上から指を押して自然に戻る練習。

これはグールドが師事していた先生からの教わり方だそうですが効果あります。

グールドから学んだ1番大きな事は弾きながら歌うことかもしれません。

CDをよく聴けば分かるようにグールドは意外な内声部を歌ってます。

これは特にバッハを理解する上でとても面白い。

私も、まずショパンではないですが、バッハはリスト編、ブゾーニ編含め歌いながら弾きます。

単純に楽しいだけでなく、歌えない箇所はその多旋律のどこが魅力的か分かってないで弾いてるところと分かります。

聴き逃しそうなところに美味しい音が隠れているのがバッハの特徴でもあります。

分かる、と言いましたが「私はここが下降線になってるからここが魅力的だと思うのでこう弾きたい!」と言った方が適切かもしれません。

これは小説で言えば「ここの文体に注目すると前後の文体の魅力が分かってくる」と同じと考えて下さい。

ここで小説を持ってきましたので小説や映画に触れることが私の実際の音楽生活にどれだけの効果をもたらしてきたかを触れてみます。

最近は哲学も加わりました。

楽語に関わらず楽譜に表記されているものは文学的なものも多いですね。

単純ではありますがそれだけにどう捉えるのかという難しさもありますし、火をふくように!と言われてもどう火を吹くのか文学ならジャック・ロンドン風の火なのか映画なら「シン・レッド・ライン」の冒頭に出てくる自分の内面を深く掘り下げる目の前の蝋燭の炎が揺れる火なのか。

そもそも私が小説や映画やまあその他諸々の芸術に触れるのは「何のため」ではなくてまあ「自分が楽しいから」の一点につきます。

「吐き気について」の哲学書を読んでるのも吐き気の美醜に単純に興味があるからです。

神話も民俗学も同じく。

いや、それらは全部繋がってるんですよ。

だからどれに手を出したって全然おかしくないわけです。

「音楽の表現力を高めたいので小説を読もう」という動機になると他の人はいざ知れずですが私は無理です。

でも「技術だけは上手くいくんだけど表現力はちょっと理解出来なくてどうしよう」って聞かれると一応アドバイスとして「今やってる方向性に行き詰まってるなら他のものに興味を持ってみたらどうか。音楽は文学と全く違うものではないから」とは言います。

ただし、これはすぐに効果が表れるものではないです。

小説を体に染み込ませるのは大体時間がかかるものですし演奏に繋げるとなると尚更。

もちろんこれは小説じゃなくても写真でも映画でもオーケーです。

私は小さい頃から読書が好きだったので小説に対する体感は早くに身につけました。

美味しい表現を美味しいと感じ、怖い表現を怖いと身震いする。

やり切れない思いに涙を堪えるのは「緊張感を保ち繊細に」という音楽用語に回帰します。

言ってしまえば楽譜を検分する時に楽譜が何を言いたいのかを耳を済ませて読み取り、それを私が小説やその他芸術から培った経験、それから感じた自分なりの解釈をピアノに照らし合わせるわけです。

自分の体験も良いでしょう。

しかし私は想像力を信じる非経験主義者なので体験よりは小説の中から自分で汲み取ったものの幅広さを信じます。

因みに「私は傷ついたことがあるからあなたの傷ついた気持ちがわかる」というような戯言は一切信じません。

ここまで他の芸術とピアノを比べてみて気がつかれたことがあると思います。

そう、ピアノが弾ける人が必ずしもピアノの美しさを理解している訳ではない、むしろ理解しているのは熱心にピアノ曲を集めて聴く人ではないか!ということです。

実際にコレクションとしてはともかく、本当にピアノ曲が好きでCDをピアノを弾く人より大量に持っている人はかなりいます。

音楽は知識以前に皆に平等に開かれているものだからです。

逆に言えば本来ならピアノに関わる人はある程度は色んなピアニストを聴くべきなのですが現状、技術に溺れてびっくりする位にピアニストを知らない、或いはYouTubeですませてしまう人の多いこと。

因みに私の傾向をここで示しておくために好きなピアニスト10人を挙げてみたいと思います。

グールド、ミケランジェリ、フランチェスコ・トリスターノ、リヒテル、アンデルジェフスキー、バックハウスポリーニ、カツァリス、ポール・ルイスグルダ

これで10名か。

まだあるんですがキリがないので。

まあこの10名もこれを弾かせたら一級!というものを持っているのも私が好きな作曲家を弾いているかどうかも関わってます。

さて、ピアノの技術の方に話を戻します。

一曲で10分を超える曲を弾きこなす場合最後まで聴かせることが重要になってきます。

例えば32小節ある中で統一感を持たせつつどこで山場をつくり緩急をつけるか、或いは敢えて平坦にすることで緊張感を持たせるのか。

とにかく次の切り替えまでが32小節あるとしてそれを一括りにしないといけません。

ミクロな見方は絶対ダメです。

全体的に何を発したいのか分からなくなります。

これも小説に例えてみると、細かい描写に頼りすぎて大きな文章の流れを失わせること、となります。

最初はみんなミクロな練習から始めます。

そしてだんだん感覚が掴め、ペダルの方向性も「これが美しい」と決め、マクロになっていき、最終的には10分以上で一つとなるわけです。

因みに何楽章か分かれてる場合、ベートーヴェンとかの場合は全楽章通じるものは勿論あるのですが楽章ごと一呼吸入れて良いと思います。

小説の第一部終了、と同じことですね。

ちょっと視点を変えてみましょう。

例えばピアノ曲は聴くのは好きだけどもうちょっと魅力を知りたいな、と思う人を引きずり込む(笑)方法。

勿論ピアニストによって違う演奏は色々聴いてるかと思います。

その中でも有名どころではグールドのゴルドベルク55年版と晩年版の聴き比べは同じピアニストが「あの解釈は今は違う」という気持ちが大きいのでとても面白いですよね。

そのピアノ曲が好きな人に例えば一つ楽曲を聴かせましょう。

部分部分に区切りましょう。

そして「ここはこの隠れ音を意識した奏法」と「敢えて隠した奏法」や「ここは開けた草原の様な奏法」と「内にこもった奏法」など交互に聴かせるのがとても面白いと思います。

さらに「どっちが好きだった?」と尋ねると聴く方も答えを膨らませるかもしれません。

答えは難しくてもオッケーだし単純でもオッケーです。

これは私の師事している先生が部分でやってくれることです。

イメージが湧かない時、いくつかのパターンを先生が提示して弾いてくれます。

そこで私が好きなものを選ばせてくれます。

そして最初直感で選んだものを信じて、次に繋がるように持ち帰ってから「じゃあ私は何故これが好きなんだろう」と考えます。

私は感覚的な人間なのでその答えも感覚的です。

あるいは小説的。

でもそれで良い、というかそれが良いのです。

頭からつま先までストンと馴染み、好きに回帰していけば「何故ならこれは美しいからだ」で説得力はあります。

ピアノは体力を使うものです。

身体全体、足も使います。

私の場合は喉も。

曲が仕上がった時は脳はトランス状態で身体が音楽を奏でている、くらいの方が良いと思います。

うーん、ピアノって面白いですね。