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白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

ピアノとは愛である。

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私が産まれた時に1番に駆けつけて色々お世話してくれたのが牧師さんだった。父親ではなく笑

物心つかない時からプロテスタント教会には連れて行ってもらっておぼろげに覚えているのはステンドグラスから陽光が射しこみそこには昔からの埃が舞い、木の椅子の匂い、そして何より賛美歌とオルガンが無条件に美しいと思った。

教義なんか全然分からないけど好きな牧師さんの朗読はただ静粛に美しく彼の声はお腹に響いた。

それが私の最初の音楽体験だ。

私が通ったところは癌患者が多かったようだ。

本も充実していた。

そしてなによりも牧師さん本人が癌だった。

私は無条件に牧師さんに頭を撫でられるのが好きだった。

多分それがきっかけだ。

私も音楽をやりたいと思ったのは。

5歳でピアノのレッスンに通いたい旨を母に告げ、通わせてもらった。

そのころ珍しく週一で1時間レッスン。

今でいう聴音という音当てクイズまで手を回してくれたのは後々高校ピアノ科に入って何もしなくてもAクラス上位に常に居れたので感謝している。

教会のバザーでクリスマスソングの赤い楽譜を買ってもらったのはとても嬉しかった。

こんな宝物を買ってもらえるなんて!と目をキラキラさせてたらしい。

今もとってある。

私がバッハインベンションに辿り着いた時からバッハにハマったのは多分この影響だ。

バッハは唯一無二でありプロで何回弾いてても「まだ知らないとこがあった!」と評されることが多い作曲家である。

何度読んでも面白いと耐えうる小説に似ている。

読むたびに新しい発見があるのだ。

心がすり減っている時に弾くバッハは格別だ。

白い繭の中に守られて私は歌っているのだ。

さて、技術についてはどうだろう?

私の目指してる方針としてはということなのだが「心があれば上手い下手は関係ない」という考えは私にはない。

技術は楽譜を読み込めば着実に根付くものだ。

繰り返し繰り返しその都度楽譜に意味を見出すのは愛だと思っている。

そして「技術が終着点」というのも全然惹かれない。

技術を身につけることは前提にあり、そこからどう自分の様々な体験や他の芸術から自分の方向に向かい(或いは既存の自分を壊す)あうかが面白いところなのだ。

私がピアノ以外の芸術もピアノを弾く上で繋がってると言うのはそういうことだ。

どちらも「ずっとピアノを好きでいられるか、そして新しく理解したいと向かい合っているのか」がポイントだ。

それは時間と継続という忍耐力が試される。

そしてチープに聞こえるかもしれないが「愛」だ。

ピアノは弾けないけど愛があるので色んなコンサートに行くし、音源も持っている、という愛は最高だと思う。

弾ける側には耳の痛い人も数多くいるのではないだろうか?

私も物心ギリギリの時に無条件に賛美歌を美しいと思った。

あのこの世ではないような目を見開く感動は私の柔らかい部分にちゃんとしまってある。

その幼い私はそれを完璧に理解していたと言ってもいい。

鳥肌が立ち全身全霊で全てを聴き逃すまいとしたのだから。

前も書いたけど楽語には同じ言葉でも多数の意味がある。

そしてそれはしばしば文学的だ。

映像的と言ってもいい。

もし表現に苦労しているのならばやっぱりピアノ以外、小説でも映画でも触れて「そこから自分は何を感じたか」を自身に問い直すといいとアドバイスする。

あなたの「よりかかる」とはどんなものですか?と。

しかしこれはすぐに体感的に身につくものではない。

時間をかけるからこそある日急にわかることがあるし、それは本当に強いものだ。

技術の場合はリズム練習や変な力が変なところに入ってないか身体全体をよく見ることがアドバイス出来るものだと思っている。

もしかしたらヨガを教えるのと似ているのかもしれない。

身体は精神に繋がっている。

そして音楽の真実について辿り着きたいなら私が今再読している村上春樹1Q84」の言葉を借りたい。

「真実にはたいてい強い痛みを伴うものだ」と。

ただ苦労しろ、と言っているのではない。

愛があるなら、そして真実に触れたいなら強い痛みをも呑み込みなさい、そこからひらかれる世界を奏でたいのならば。

そして同時に音楽はあなた個人にあってどこまでも味方であることを信じなさい。

それが私個人の考えである。