白昼夢で踊る犬

本書に一切真実はない。全ては真っ赤な嘘である。

20151129フランチェスコ・トリスターノ。

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去年の夏からブログをサボっていたのだけどやはりこれは記しておかねばならないと思い去年11月29日さいたま芸術劇場で行われたフランチェスコ・トリスターノのコンサートについてまだ感じてることをバッと書いていくことにする。

文字に起こさないと消えていってしまうものは確実にあるのだ。

プログラム

トリスターノ:KYEOTP

J.S. バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825

J.S. バッハ:パルティータ第6番 ホ短調 BWV 830

トリスターノ:主題と変奏(新作世界初演

J.S. バッハ:パルティータ第2番 ハ短調 BWV 826

トリスターノ:シャコンヌ(グラウンド・ベース)

【アンコール曲】

フレスコバルディ:《トッカータ集第2巻》より〈トッカータ第4番〉

~トリスターノ:ラ・フランシスカーナ

相変わらず攻めるプログラム。

バッハと自作曲を交互にやっていて自作曲はリズム性が高く、グランドピアノの中を手で叩き打楽器としても使うという曲なのにバッハとの組み合わせの違和感は全くない。

彼の自作曲はグルーヴにとんでおり、和音は心地よい浮遊感と張り詰めた打鍵と雫が水たまりに落ちるような輪郭の不協和音が広がる。

聴いてて何処かにもっていかれる。

はじける音は思わず指でリズムをとってしまう。

対してバッハはパッセージの速い曲は内臓が踊るようだし静かな曲は冷たいくらいさみしい。

どうしてこんなにさみしい音になるのだろう。

グールドが優しさを含んだどうしようもないさみしさを後期ゴルドベルクで示したとすればトリスターノのそれは宇宙に取り残されたスプートニクの犬だ。

何もないさみしさの目に映るほんとうの黒。

人間だったら「地球は青く美しい」というのだろうか。

それは個人的な弱音なのだろうか。

折れそうで硬い氷柱みたいに打鍵音が響く。

本当に打鍵音という感じなのだ。

私は彼のどこか個人的なものというより厳しさとも言える弱音をとても気に入ってしまった。

そうだ、私はこんな音を出してみたかったんだと思った。

その時私は弱音の色に悩んでいたのだ。

帰ってからすぐ弱音のところばかり練習した。

彼のくれたものを私なりに咀嚼して吐き出したかった。

精密に同じパッセージを何回も何回も微調整して、ぴたりと当てはまる色を探すのだ。

何よりそれまで悩んでいたために憂鬱だった弱音の練習が、頭の中で理想がカタチづくられたからかとても楽しい時間になった。

コンサートからたった2週間後のレッスン日に師事している先生がとてもびっくりすると共に褒めてくださった。

たった2週間だ。

ピアノは自分は変えたつもりでも他人に伝わる程ではないということは良くある。

だから先生が「とても変わった!どうしたの?何があったの?」と言って下さった時に私は嬉しいより驚いてしまった。

だってまだ全然頭の中の、身体の中の鳴っている音と実際出している音に近づいていないから。

時々、ピアノを練習する前に深呼吸をして目を閉じこのコンサートを反芻してみる。

となるとピアノの練習の実態を知らない方は詩的だな、と思うだろう。

しかし私の練習風景は多分そういうものとは程遠い。

バッハは基本ペダルを踏まないし、音を最初調整する時はペダルが必要な曲も私は踏まないで練習する。

なので足を組んで弾いたり、時間が経つとピアノの椅子の上に胡座をかいて弾いたりしている。

ちなみに椅子の高さは平均よりかなり低い。(グールドほどではない)

それが私のリラックス出来る体勢なのだから仕方がない。

足下には水道水を入れたペットボトルが置いてありちょこちょこ水分補給する。

ピアノ左上には汗拭きシートが置いてある。

あとカフェイン錠剤(合法ドーピングと呼んでいる)

私は手汗は全くかかないのだが胸の間(別に胸は大きくない)と背中に汗がたれてくるので汗拭きシートは必須である。

そしてひたすら黙々と弾きつづげるのである。

今年の三鷹の公演もすでにチケットを取ってあります。

友人2人含めた3枚。

フランチェスコ・トリスターノ布教してます。

写メは良い具合に部屋に日の光が射し込んできたのでそれを利用して撮ってみました。